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 しょうがない勉強

「なぜ日本史を…」と聞かれると、いつものように狼狽してしまう。そんな時決まって、「日本に興味があるから…」と、脂汗顔で懸命にお茶を濁そうとする。今だからこそ白状できるが、私は、「好き」ではなく、「しょうがない」からこの道に入ったのである。大学を卒業したのは一九八二年。まだ「祖国(中国)の需要」に従い、お上から仕事が決定される時代だったから、押しつけの運命を嫌って、「院」に逃げ込んだのである。思えば、この二年、就職不況で大学院の商売が繁盛した日本の状況とよく似ている。「へー、仕事は自分で選べないのか」と、今の若い学生たちが驚くだろうが、「社会」ための「主義」からすると、当然なしきたりである。もっとも、この「社会」のお陰で四年間学費を払わずに居候させてもらったのだから、これ以上ぜいたくを言う立場でない。

 

  一方、「院」に上がれば、将来の進路にある程度選択の幅が利く。それだけではなく、日本のような、秀才を引きつける資格試験や大手会社の口がなかったため、「院」に入ることは、唯一の「出世」の道でもある。「文化大革命」の十年による教育の荒廃で、その時の院生は、名実ともに「金の卵」である。ただ、みんながあこがれている道だからそれなりに競争が激しい。実際入れたのは、たしか大卒の五パーセント以下だったと、記憶している。よっぽとの秀才でなければ、入試を敬遠するのは普通であったが、大学で成績が平々凡々だった私は、クラスメート達の怪訝な顔や冷眼を素知らぬふりで「院」のドアを叩いたのである。「メンツ」より「運命」の方は大事だ---、これは、クラスメートの平均より五歳以上も年上の私の、渡世から得た大事な経験である。  

 

  こいうわけで、当時の大学院という、「出世」の新天地を目指したものには、秀才もあれば、私のような運命の投機者もいたが、おおよそ「学問」と無縁の連中ばかりである。秀才たちは実力で勝負するが、投機者連れは他大学の不人気学科の賭けに全力を投じる。もともと研究者になる積もりはないので、専攻というものは、どうでもよい。誰もかも平気に大学や専攻を変えて受験に挑む。
  理科と無縁の私は、はじめに、「日本経済」に目標を定めたが、「日本」に拘ったのは、語学に自信があるほか、日本をやると日本に行けるかも知れない、というかすかな野望が抱いたためである。しかし、勉強し始めると、その基本となる「マル経」にどうしてもついていけそうもないので、途中でおりた始末である。「文革」の尾を引いた当時、「何」経済にもかかわらず、まず「マル経」が叩き込まれる。しかも、思想教育色の教条ばかりである。「資本主義社会におけるプロレタリアの絶対貧困」といった調子の古典は、一字も変えず念仏のように受け売りされている。「文革」はすでに終了し、改革開放も始まった時期だから、外国の情報や様子はいろんなルートを通じて国内に伝わってくる。が、どれも講堂で聞いたイメージと違う。とうとう聞きかねた私は、ある日、授業中「今の資本主義と百年前の資本主義の相違」について大胆な質問をしたが、面食らった先生が学生からにヤジをとばされた反面、質問者の私は「英雄」となり、盛んな拍手と歓声が送られていた、と記憶している。
 

 

  この「災い」で、日本経済を諦めざるを得なかった私は、今度、躊躇なく「日本歴史」に飛びつく。当時の歴史学も、共産党の天下で「政治支配のための道具」として位置づけられてきたが、「実学」が要り、空論だけですまされない一面があるので、人気上々である。折しも「御用」ではあるが、日中国交正常化の時から、観点近似のマルクス主義学者井上清氏の歴史論が翻訳され、この時期までよく読まれている。井上氏著作には、国内にありふれた火薬味の強い政治論文と一風変わって、史料に基づく厳密さがあり、「学問」のあり方の面では「文革」後の国内歴史学界に新鮮なイメージと自由な空気をもたらしていた。ただ、私は井上氏の本をかじりついた時、氏の帝国主義批判論の「人気」はすでに陰りが見えはじめ、代わってライシャワーの近代化論が時代の花形として登場してくる。それは、「帝国主義批判」から「近代化の経験吸収」へ、政府の方針が転換したためである。ひと昔「人民の歴史」を唱え、日本帝国主義の侵略を批判していた学者連れの多くは、今度臆面もなく明治の元勲を讃えはじめ、高度成長の「経験」を高らかに謳うようになる。学者の無節操は一つ日本戦時下の現象だけではない。御用学問の結末は、いかに惨めであるかは、いもでもつくづく思っている。 

 
 話しのすじみちに戻るが、日本歴史に的を絞った私は、大学院受験のため、井上清氏著『日本近代史』の訳本のほか、今問題となった「高校日本史教科書」一冊も独学で勉強したが、幸い、よその大学院の試験に合格となり、しかも最も憧れている「国費留学」候補の資格も一緒に勝ち取った。
  「投機」は大成功。押しつけの運命を待つ無名な一大学生の私は、一躍して「祖国のホープ」に変身する。天性愚鈍でいじめられてきた私は、さっそくクラスメートの前で生まれて初めて「威張り」の追体験を味わってみたが、肝心な学問への心構えは、全く出来ていなかった。無理もない。もともと「しょうがなく」この道に入り込んだのだから。同じ「国費留学」の候補として集まった仲間は、半分以上、私のような「投機者」だったのではないか、と推測している。
 

 

  来日後、大学院を目指した日本人の友人に、「就職の保障もままならないのになぜ大学院に進学するか」と、動機を聞いたことがある。「好きだから…」という淡々な答えである。背中にショックが走る。少なくとも数年の間、私は、その理解に苦しんでいた。またその後、意識的に自分の「動機」も隠すようになった。あの「すきだから…」と答えた友人は、十年後の今でも教職につけず、結婚出来ずに黙々と地味な研究を続けている。「しょうがない」私に運命の女神を恵まれてくれた神様に密かに感謝するが、と同時にある種の名状しがたい罪悪感を覚え、心の深層でこの友人に頭を下げ続けている。 

 

  こういういきさつで日本史研究に入門した私は、しょうがなく勉強に取り組み始めたが、次第に歴史学に対する認識は変わり始める。はじめに、留学の使命感が勉強のおもな源泉だったが、次第に「運命への疑問」が深まり、「文革世代」の使命感にも駆られるようになっている。机に向かった時、最初の「苦痛」感こそ感じられなくなったが、「好きだから」との気持ちは、とうとう味わえずに今に至っている。

 

  講壇に立ってから、「単位」のため、あるいは「義理」のため無理につき合ってくれた学生たちのつまらなぬ顔を、すっかり見慣れていた。サボられたとき、あるいは授業が邪魔されたときは、決して快い感じではないが、なぜか、立腹する勇気はない。自分の大学時代のことを思い出しては、同情さえ感じている。
  こうして、「しょうがなく」講壇に立つ教員と、「しょうがなく」授業に出る学生の心の中、人間性としての、なんらかの共通した要素があろう、と思っている。
 といっても、やはり、学問好きな研究者になりたい。「来世こそ…」と、夢の中で誓っている。 (『日本史研究室通信』第十七号、1995ー3)

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