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モノイジリ

  小さいときから、モノをいじることが、好きだった。古い懐中時計、万年筆などをばらして、メカニズムを観察するのが楽しみであった。小学生のころから、航空機の模型や木製の拳銃なども作りはじめ、設計図も材料も道具もない当時、文字通りの「手」作りで、何を作るにも、大変な努力と器用な手さばきが必要であった。怪我も日常茶飯事のようで、手のどこかに、いつも薄汚い絆創膏が張られていた。

 文化大革命になると、時間をもて余した僕は、革命時代の雰囲気に相応しい、毛沢東のキャラクターを作り始めた。不要となった靴底に毛の版画を彫ったり、有機ガラスで毛のバッチをつくったりすることに熱中した。特に歯磨きでぴかぴかと仕上げた有機ガラス製のバッチは、工芸品並みの出来映えであり、前門(地名)前のバッチ交換の闇市で、いつも「高値」で取引されていた。ただ、このような趣味は、あの時代には大変な政治的危険を伴った。ヤスリで偉大な指導者毛沢東の顔型を削ったり、汚い靴底に毛の顔をナイフで刻み込むことは、「不敬」どころではない。密告されると弁解の仕様がない、立派な「反革命」現行犯となりうる。近所の知り合いの中一と小四の兄弟二人が、落書きのせいでそろって「小反革命分子」としてつるし上げられた事件の後、さすがに頑固だった僕も、親父のお説教を聞き入れ、毛沢東の顔にイタズラをするあぶない趣味をやめてしまったのである。

 

 黒龍江省に「下放」されたころ、一六歳になった僕は一年弱、農場のトラック分隊で自動車整備の仕事に従事したことがあった。厳しい自然と栄養失調の生活は確かにつらかったのだが、仕事に関するかぎり、不平と不満はなかった。夏には、顔を襲ってきた蚊の大群を油汚れの手で払うわけにもいかず、いっそうのことと、グリースで顔中を塗りつぶしたり、厳冬の朝、口で銅管の油路を吹こうとして、くちびるの皮がベロリと剥げたりしたひどい経験もあったが、野良の畑仕事ではなく、趣味のたぐいに属したモノイジリだから、毎日楽しくてしょうがなかったと、記憶している。

 ただ、このパラダイスも一年どまりで、目上の上司への反抗でまもなく不毛の村へ左遷され、牛の世話を命じられる始末となった。  大学にはいる前、仕事として、天津市の紡績機修理工場で旋盤を回していたが、これも好きな仕事であった。二年あまりしか経験してないのに、七、八年来の先輩たちより、いい腕を持つ自信があった。特にグラインダーでバイト刃先に溝を切り出す技は、数十年の経験があるベテランの熟練工からも褒められたものである。ただ、当時はサボタージュの時代であり、仕事をまじめにやると村八分にされる恐れがあったため、無理をして向学心と労働意欲を押さえ、物足りなさが残った。もし、文化大革命が終了せず、そのまま工場に居残って熟練工の道を歩むことになっていても、モノイジリ好きな僕にとって、別につらいことではなかったろう。

 

 しかし、モノイジリの時代はその後突然終わった。大学に入ったためである。以来ほとんどモノイジリらしい仕事をせずに、二十年を経ようとしている。学業が忙しかった学生時代、とてもモノイジリの楽しさを懐かしむ余裕はなかったが、岡山にきて暇ができたせいか、昔の心が次第によみがえってきた。二年前から篆刻の趣味を始めたが、今考えて見れば、印を彫るときの胸のときめきは、靴底で毛沢東の版画を彫った時のそれと、大して変わらないだろう。

 時々近所のホームセンターに出かけては、必要もない大工道具を次々に買ってくる。スパナー、レンチ、万力、マイクロメーター、グラインダー、電気テスターなど。車のお世話になってから、自動車のメッカにも興味を示すようになった。しかし、ボンネットをあけて中を覗き込むと、それは二〇数年前かつて僕が整備した朝鮮戦争下がりのポンコツと、全く違うメカになっていることがわかった。もはや手のつけようはない。でも、あきらめなかった。複雑な調整は出来ないが、せめてバルブの交換、点火プラグの清掃、エンジンオイルの交換など、自分の手でやり遂げた。日曜日の早朝、静かな宿舎の駐車場で車のボンネットをあけて故障もしていない車をいじっている馬鹿は、他ならない僕である。

 

 こうしたモノイジリの自信は最近、ある文明の利器の前に、崩れ去ろうとした。パソコンである。パソコンに対して僕は、最初からある特別な感情を抱いた。仕事に使用するというより、趣味でいじりたかったというのが、本音である。最初のパソコンを買った五年前の夏、一ヶ月ほどマニュアルと首びっき、この新しいメカになれようと努力した。甲斐があった。プログラミングのような高度の技術はできないが、システムの構築、ソフトの調整など、一人でやれるようになっていた。ツールソフトを使ってファイルの中身を見ていじるのは、仕事合間の気晴らしであった。もちろん、すべて一般風順ではない。数日をかけて作った文書がファイル操作のミスで消えてしまった時の悔しさは、とても言葉で表せるものではない。また、急にシステムが動かなくなるような事態が起こると、そのショックはさらに大きい。昨年ハードディスクのクラッシュに見舞われ、大量のデータ(僕のすべて)を失う寸前になった。文字通りパニックである。人生はその時急に、暗くなったような気がした。こうした非常事態が発生した時、飯も食えず、夜更けも眠れず、早朝五時台に研究室に乗り込むことも、しばしばであった。

 

 

 今年、研究室にマルチメディアの新機種を導入した慶事があったが、これは、皮肉にも、モノイジリの僕の自信を根底から挫くきっかけにもなった。技術レベルが飛躍的に進歩した現在、パソコンはもはや僕のいじれるものではない。ファイルの数は五年前の機種より数百倍に増え、山積みになったハード・ソフトの説明書を読むにも、どれも大変な時間が必要であった。このデリケートな文明の塊は、もし故障でもしたら、その修理、点検にさらに専門知識と莫大な時間を必要とする。とうとう僕は降参した。いじりたくなくなった。いや、いじりたくないというより、いじれないまで器機の中身が複雑化されていたためである。二〇世紀は人間が機械をいじる世紀であるが、来る二一世紀は、機械が人間をいじめる世紀になるのではないか。僕は悲しくなった。しかし、まだ完全にくたばってはいない。いつかまだパソコンに立ち向かうだろう。ただ、いまでは、ほかの人からパソコンに関するコメントを求められたら、僕は「簡単さ」と首を縦に振る勇気はない。
「日本史研究室96年度プロフィルより」

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