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下放の日々

中学校時代

文化大革命が始まった一九六六年、僕はちょうど一三歳、小学校卒業の年であった。北京で紅衛兵運動の心臓部である地域と地理的に近いせいもあり、このとき僕の小学校でも自発的に紅衛兵が組織、「造反」、「破四旧」、「黒五類」の家宅捜査などをして気炎を上げていた。動乱で中学校が閉鎖されたため、進学することなく、近くの大学、中高校に「造反」「革命」の見物に行ったり、住んでいる機関大院内で、グループ喧嘩、建造物侵入、破壊、盗み、いたずらなどをしたりして、スリル満点の日々を過ごした。「造反」「奪権」の熱がまだ収まっていない一九六八年の春、毛沢東の「復学革命」の指示一つで、僕たちは試験も受けずに、近所の第一〇一中学校に編入され、毛の語録一冊だけで、一年あまり、荒れ放題のキャンパスに通った。第一〇一中学(中高校)は、旧皇家庭園円明園の一角にあり、北京大学と清華大学に挟まれた、高幹子弟雲集の名門校で、毛沢東と江青の一人娘李納も、かつての在学生であった。紅衛兵運動が盛んだった時、最初に毛に見殺にされた、元祖紅衛兵組織「連動」の拠点でもあった。こうした名門校に無試験で入れてくれたことは嬉しいが、教育の実は名門時代と無関係に、進駐した労働者宣伝隊が担当した。ここで、解放軍の兵隊さんによる隊列の教練の他、労働者宣伝隊による政治教育や農村での集団体験をも経験したが、肝心な知識といった授業は全く受けなかった。英語の授業も数回あったが、出身が良い(農民)とされ体育の先生がそれを担当し、教えたのはただLong live chairman Mao(毛主席万歳) と、Chairman Mao a long a long live(祝毛主席長寿)の二句であった。

こうして一年後、僕らはめでたく卒業証書が渡され、さらに一ヶ月の後、毛沢東の「知識青年は農村に行って農民の再教育を受ける必要がある」との「最高指示」に従い、殆ど全員、黒竜江省、内蒙古、新彊、雲南などの辺境地に下放された。小学校卒の教養しかないのに、僕も恥ずかしながら「知識青年」の仲間入りを果たした。

 

「上山下郷」

僕が黒竜江省の開拓地帯――当時「北大荒」と呼ばれたところ――への臨時列車に乗り込んだのは、一九六九年八月十日、十六歳になったばかりの時である。

下放(正式には「上山下郷運動」と呼ばれる)とは約半年ほど前から、老三届(六六年~六八年中、高校卒の呼称)中の志願者から始まった、半ば自発的活動で、革命の根拠地や、苦しい山村・辺境へ行って、自らの思想改造を行うという、紅衛兵流の理想主義的な試みであった。まもなく、毛沢東がこれを褒め称える談話を発表し、たちまち文化大革命運動の一環として、大規模な「上山下郷運動」が始まった。またこれとは別に、文革で失脚した知識人、党の幹部らも、思想改造の名で「五・七幹部学校」と呼ばれる農村の施設に送られた。

いま思えば、「思想改造」とは聞こえのよい美辞麗句であり、「奪権」が成功してしまえばもはや厄介もの以外何者でもない紅衛兵を根こそぎ追い出して自らの政権基盤を固めようとしたのが、毛の思惑であろう。その外、膨張する都市人口の調整や、いつ勃発するか知らぬ中ソ戦争の弾よけのために、我々が送り込まれたとも、言われる。ただ下放の当時、こう思う人はほとんどなく、誰もが偉大なる指導者毛沢東の言葉を信じて疑わなかった。

政策による組織的、大規模な下放は、一九六九年からはじまったが、我々六九年度の卒業生は、その最初の犠牲者となった。この年、北京、天津、上海の中卒生のほとんどは、北、西、南の辺境地に根こそぎ下放されたのである。

一方、革命の熱気がまだ冷めやらぬ当時、知識青年の下放は現在の小説に描かれた、汽笛一声で泣き声がホーム中に漂うような「強制された」、「追放された」悲壮感はなく、理想に燃え自らの意思で農村に赴いたものが、下放者の大半を占めていたのではないかと思う。僕のクラスの場合、四〇数名の内、親の猛反対で不名誉な残留組になったごく少数の例以外、ほとんどの家庭は、下放の動員に応じた。動員がかかった時、労働者宣伝隊、教師たちは、連日連夜のように各家庭を訪問して説得したのも事実だったが、僕のような、親は支持し、本人も積極的だった「無条件」組もかなりの数にのぼった。唯一考慮が必要となったのは、地域の選択であった。それは、内蒙古や黒竜江省の「生産建設兵団」に行くか、それとも山西、陜西省の農村への「落戸」か、である。「落戸」とは、貧しい田舎の農村に入り込み、農民の一員になることだが、厳格に言うと、最初の「上山下郷運動」はこのような形式を指していた。ただ、現実として「落戸」とはそれほど簡単なことではなく、都市青年と田舎農民の生活、意識の落差があまりにも大きく、実際の問題として、受け入れ体制、食糧問題、住宅、生活問題などが噴出し、大規模な下放に向かなかった。これに対して在来の国営農場は場所的にも、資金力的にも受け入れの潜在力があった。毛の指示に応えて、辺境地に位置する国営の大農場が、急いで「生産建設兵団」に衣替えをし、下放青年を受け入れる主要な場所になり変わった。

 

生産建設兵団

「生産建設兵団」とは、下放の受け入れ体制を整えるため急造した擬似軍の組織形態であり、元々各地に分散した国営農場を、師団、旅団、大隊、中隊、小隊といった名称で再編して一元化した組織で、中枢には少数の現役軍人も派遣された。文化大革命のおかげで偉大な「解放軍」に関わるすべてが、我々青少年のあこがれの的であり、自らの名前を「軍」「愛軍」「衛軍」「紅軍」「建軍」などに変える人も多くいた。「農場」の名前を「兵団」にすり替えた操作一つで、解放軍を憧れる無知な青少年の心をとらえる、大きな心理的力を発揮した。

また僕が黒竜江省を選んだもう一つの理由には、文化大革命前の教科書や、あるいは文学作品を通じて知った、「北大荒」の豊かなイメージがあった。握ったら油がにじみ出るような肥沃な黒い土、そして「棒でシカを撃ち、瓢で魚を掬い、雉が鍋の中に飛んでくる」、詩的な生活。建国期の辺境開拓を美化するこうした御用文学作品の描写は、いっそう青少年たちの好奇心、冒険心をかき立てる結果になり、出発の数週間前から、僕はすでにわくわくと未来の新生活を夢見たのである。

一九六九年七月下旬の動員ともに、下放の支度も始まり、国家からカーキー色の綿服(いわゆる兵団の制服)、オーバーコート一式が、無料で支給された。貧しくて綿服を作れない家庭の子も、かなりいたからである。文革でがらんとしたデパートで、洗面器、飯盒、歯磨き、コップなどの生活必需品だけを調達し、蒲団もろとも帆布箱に詰め込み、八月十日北京駅から出発した。僕は最初に家を出る子となるので、その時一家五人全員、北京駅まで見送りにしてくれた。これは家族の最後の団らん瞬間でもあった。父と母も、その一ヶ月後、山東省雛県にある「五・七幹部学校」に下放され、北京には腎臓病で下放不適と診断されたひ弱い兄と一四歳の双子の妹が残された。住み慣れた幹部宿舎は父母の下放と同時に取り上げられたため、兄は工場の寮に入り、妹二人は懇意だった隣人に託した。一家の離散である。時は一九六九年の末、その後一家六人が一堂に顔をそろえた機会は一度もなく、僕がやっと軍に入営した末の妹と顔を合わせ得たのは、その六、七年後のことだった。

 

緊張した中ソ辺境

臨時列車は黒い煙を吐きながら二昼三夜をかけて北上し、北安県城よりさらに三〇キロ北の、徳都県二龍山屯という町に辿り着いた。鉄道はもともと中ロ辺境の黒河鎮からハルビンに繋ぐシベリア鉄道の一部であったが、日中戦争の際、ソ連軍の南下に備えるため、日本の関東軍がこれを破壊し、僕らがいた時、線路の土台のみ残り、鉄道の終点は二龍山屯よりさらに北三〇キロの龍鎮という町にあった。

龍鎮から辺境の黒河鎮まで約二〇〇キロあまりの距離があるが、この一円は我々の生産建設兵団第一師(師団)の守備範囲である。師司令部は辺境に近い孫呉という町に置かれている。所属の七つの団(旅団)中の五つは、ソ連に近い前方に位置する。時はちょうど中ソ珍宝島武装衝突の最中であり、緊張感が漲っていた。前線に位置する団(農場)は、もちろん、生産するどころではない。第一級戦備の状態下にあり、ソ連軍の侵入に備えて、トラクターの部品までバラして、土に埋めたと話に聞く。そこにいる「知識青年」たちも、朝鮮戦争下がりの、旧式の武器が配備された。

戦争準備といっても、辺境地には守備隊以外、解放軍の主力部隊はなく、もし中ソ戦争がおこったら、毛沢東は辺境地を放棄して、ソ連の装甲軍団を内地部に誘引して、ゲリラ戦術で対応するつもりだったと言われる。したがって我々のような生産建設兵団の戦備は、機械化したソ連軍を阻止する戦略的意味はまったくなく、本当に戦争が起こったら、我々は敵の侵攻を一時的に攪乱する、時間稼ぎの捨て石にすぎなかっただろう。「砲灰」(弾除け)の意味はここに来てから次第に分かってきた。

我々が入った二龍山農場はこの時、第一師の第六団に編成され、団長と副団長は現役の軍人だった。営(分農場)と連(生産隊)以下はすべて元の農場組織で、長となるものは大体退役の軍人が勤めていた。

前方の五つの団が臨戦状態にあるが、これに対して辺境から二〇〇キロを離れた、後方にいる我々の第六団と第七団は、普段の通り、生産活動を続けた。

 

強制収容所

「黒竜江省徳都県、中国人民解放軍生産建設兵団第一師第六団」。手紙にもこう書いて知人や親戚に自慢した。しかし、来てから分かったが、この国営二龍山農場の前身が、実は、建国後につくった、「労働改造農場」で、つまり囚人を管理する強制労働の収容所であった。解放戦争中、大量の国民党軍隊の軍人が捕虜となり、その中で、責任や問題があるとされる将校たちは、このような辺境地に送られ服役した。その後、刑期満了とともに、家族とともに現地に住み込み、監視のために送られた解放軍の復員軍人とその家族をも混じって、国営農場を形成した。このほか、一部の山東省からの移民や、現地雇用の地元出身の職工もいた。

北安県、徳都県のまわり、国営農場が多く散在しているが、大部分はこのような元「労働改造」農場であった。中には現役囚を収容する農場もあり、周りを鉄条網で囲まれていた。

旧刑務所の強制収容所と服役囚の恐ろしいイメージがあったが、実際そのほとんどの元囚人は、革命の所産である「政治犯」であり、しかも建国後の思想改造、相次ぐの政治運動の衝撃をうけ、至って恭順であった。中には、我々名ばかりの「知識青年」と違い、教養の高い本物の「知識人」もおり、元監視役の、字を読めない解放軍の退役軍人より、ずっと紳士的で、知的であった。彼らは政治面で「歴史問題」を引きずり農場の最低層に敷かれているが、農業技術の面では中堅技術者となるものが多かった。僕たちが来てから、政治学習のたびに、「旧囚人による階級的破壊活動を警戒し監視せよ」と、耳にたこができるぐらい聞かされたが、実際に反革命の破壊活動を聞いたことは、捏造事件以外、一度もなかった。革命後の中国では、こうした温順な元政治犯、またその子孫まで永遠にこのような理不尽の扱いを受けつづけることを考えると、当時私のような革命児でさえも、情けなく思った。

 

宿舎

「北大荒」で最初に僕たちを待ち受けたのは、詩的な生活ではなく、蚊の大群による襲撃であった。到着した八月一二日の夜、かなり冷え込み、みんな長袖の服を着ているにもかかわらず、見たことのない大きい、黒色の蚊の大群が布の生地越しに襲ってきた。また、蚊とは別に我々が全く経験したことのない、現地人が「小噛」と呼ぶ、髪の中に入り込み頭の皮膚に食い込む、恐ろしい虫の洗礼も受けた。

着いた時、我々の宿舎がまだ建造中なので、車庫に臨時の寝台がつくられ、厳冬が来るしばらくの間、男女とも筵の壁で隔てた同じ車庫に、隣り合わせで寝泊まりしていた。この間、僕たちは自ら建築の工事を進め、雪が降る前、なんとか落成した宿舎に移った。

知識青年の宿舎はどこも同じように、大きな軽煉瓦による簡易な造りであり、入り口二つで合計四つ大部屋が作られた。四〇平米もある大部屋には、木製の寝台が南に一面、北に上下二面が作られ、各部屋に二〇人前後の知識青年が入居した。真ん中に火壁と呼ばれる煉瓦の暖炉が作られ、冬になると、昼夜なく石炭を燃やして暖を採っていた。外は零下四〇度に近い極寒の世界なのに、部屋の中は暖かくて、居心地がよい。室内にもちろん水道はなく、トイレもなかった。厳冬の夜中でも、数十メートル離れた、風が吹き通る簡易トイレに行かなければならなかった。零下四〇度?おちんちんからの尿は、落ちる前に凍りはしないかと良く聞かれるが、答えはノーである。ただ、尿や糞は、落とされた所で固まってしまうので、まもなく深さ二メートルもある糞池から、逆さまにつらら状の柱が盛り上がってきて、それをスコップで削り取るのは、トイレ清掃の日課であった。

夏場は蚊が多いので、日が暮れると外は恐ろしい吸血の世界に変わる。トイレに行くのも迅速でなければならなかった。夕方に用がすむと、大体の人は自分の蚊帳に潜り込んで会話したり、手紙を書いたりした。

 

風土病と疾病

北大荒はどこでも同じように、水が少ない上水質がわるく、恐ろしい風土病が流行していた。地下五〇メートルもある深い井戸から汲み上げられた水はとても飲めるものではなく、煮沸しないで飲むと、まちがいなく下痢する。日本でもよく知られる、セレンの欠乏による風土病の「克山病」も、すぐ隣の県(克山県)で発見されたのである。地元の青年のほとんどは、「大骨節病」(大関節)という奇病に患っている。この病気の特徴は骨成長の奇形であり、背がのびず、各部の関節ばかりが太くて大きい。足が短い上重度のO型に変形し、胴体と顔だけ、大きく見える。生まれてずっとここの水を飲んで成長すると人間はこう変わってしまうのではないかと思う。

来て間もなく、ほとんどの青年には発疹、下痢、喘息などの風土不順の病状が現れ始め、アレルギー体質の人ほど、病状が重い。僕は元々喘息の病歴があり、皮膚も弱いので、北大荒に入ってから一ヶ月も経たない内、全身性の発疹に倒れた。蚊や虫に刺されたか、アレルギーかも分からず、多いとき全身四分の三以上の皮膚には、五百円玉ほどのこぶに覆われ、奇痒に耐えられなかった。掻き傷も加わり、文字通りの完膚無き状態であった。治療には白い抗痒の液体薬が全身に塗られたほか、強度の抗アレルギーのクスリが投与され、昼もほとんど昏睡状態で凌いだのである。

夏になると赤痢が流行し、連の半分以上の青年がそれに感染した。僕は二年連続で赤痢にかかり、病状が重いとき、毎日数十回トイレを往復し、腸液の最後の一滴まですべて消耗し尽くした感じだった。二年目の夏、赤痢の後体重を量ってみたが、成長期というのに一年前来た時より、十キロもやせていたので驚いた。

その外、衛生条件が極めて悪く、年中フロに入れないので、宿舎には虱、蚤、南京虫なども横行した。最初に自分の下着の襞から、白くてお腹が赤い(吸った血)虱を発見した恐ろしさは、今でもはっきり覚えている。その後、僕は勉めて洗濯をして、虱を退治した。

このように、悪い衛生条件と風土不順のため、僕の体力は極端に低下していた。咳と喘息、断続的な発疹、赤痢、そして後で触れるが、肝炎にも感染した。このまま北大荒にいると、この子は危ないと父母が直感しただろう、下放から三年たった一九七二年の晩秋、僕を着の身着のまま北大荒から呼び戻し、履歴まで変造して裏口で解放軍に送り込んだ。不正の「走後門」と非難されたが、今考えると、「生かす」ための選択でもあろう。そのときの僕は、肝炎の尾を引いていたほか、百メートルを歩いても喘息しそうになるまで、弱り切っていたのである。

 

貧弱な食生活

元々二龍山農場は、食糧の生産をおもな仕事とするところなので、飢えの経験こそなかったものの、硬直な計画経営とずさんな食堂管理で僕たちはひどい栄養失調の食生活を余儀なくされた。主食は小麦粉であり、食堂から年中変わりなく饅頭が出てくる。農場入りした前年は豊年で、自分の加工場で八五粉(強力粉)が作られ、白い美味しい饅頭を数回食べていたが、一ヶ月もしないうち、水害で刈り取りができず、麦畑で黴びるか発芽した小麦の粉を毎日食べざるを得ない羽目になった。それは普通の粉のように発酵出来ない黒くて粘りのある代物で、黴の臭いもする。このような饅頭を、一年ほど、食べ続けた。

計画経済で小麦以外の作物が生産できないので、食べたくても入手のしようがない。すぐ小麦粉に食べ飽きた我々は、しょうがなく近所の村に農民と小麦とコウリャンやトウモロコシの物々交換をして、一時的ではあるが主食のバリエーションを増やした。野菜もほとんど生産しないので、おかずは年中ジャガイモのスープがメインで、季節によって大根や、白菜を食べられることもある。スープといっても、塩味があるだけ、醤油や油が一滴もない。生産した大豆が山ほどあるにもかかわらず、農場の売店に置かれたのは、なぜか無機合成の「化学醤油」である。上からの命令がなければ、油も絞らず、豆腐も作れない。こうして、条件があったにもかかわらず、馬鹿げた「計画経済」の下で、養豚、養鶏、野菜作り、大豆加工のなどの経営はなく、僕たちは大豆の山のなかで、食用油一滴もない食生活を余儀なくされた。今考えれば本当に馬鹿らしい。

一方、こうした貧弱な食生活は、知識青年たちが利用する食堂のみであり、農場職工の自宅の台所には、自家製の野菜、卵、肉などがあったようである。

農繁期になると、ほんの数回、大豆除草の「会戦」にあわせて、上から豚肉などが配給され、大豆畑の中で昼食として提供された。また、年に数回、どこからか分からないが、知識青年ための「特配」として、牛や羊の血の固まりが運ばれ、数日間、ジャガイモのスープを彩る貴重な栄養源にもなった。

我々は、国営農場の労働者として給料が支給され、額は初級の見習い工と同様三二元であった。この額は、当時の北京なら、幾分使用価値があるが、物資が極端に不足した辺境地で、ほとんど役に立たなかった。食堂での食費は月一四、五元がかかり、残った分はほとんど一銭も残らずに、本部の売店でジャガイモの粗製酒、野菜の缶詰(肉の缶詰はもちろんない)、駄菓子と飴玉などを買って使い果たした。あげく、帰京の乗車賃(二十数元ほどかかる)も捻出できず、親から送ってもらう人も多かった。

栄養を補うため、ほとんどの青年は大都市にいる親から粉ミルク、落花生などのものを郵便で送ってもらい、あるいは、近所の村に出かけては、高額の卵を買い入れ自分で料理して食べた。親からの小包をあける瞬間は、なによりの楽しみであった。

時には日曜を使って北安県城に繰り出し、財布をはたいて、町の料理屋で肉、卵料理などをたらふく食べて帰る。

 

トラックの整備士

下放された三年の間、僕はいろんな仕事を経験した。

僕のいた第一師第六団(二龍山農場)は、団司令部(農場本部)と直属連以下、四つの営(分農場)に分け、さらにその下、合計二十数か所の基層生産単位の連(生産隊)が置かれ、四方二〇キロもある、広大な耕地を耕していた。基層の生産隊は約二〇〇人ほどの職工で編成し、中には知識青年と呼ばれる我々がその半分近くを占めた。作物は主として小麦と大豆であり、ソ連制の旧式のコンバイン、トラクターとその他の農機具を使って、機械化の経営をしていた。当時全国農村の遅れた現状に比べ、ここはまさしく先進的農業地帯といえる。

農場入りの際、ちょうど僕のクラス担任の先生が、護送役の総責任者を勤めていたので、彼のおかげであろう、クラス全員の十数人が、団部(農場本部)直属の「汽車連」(トラック中隊)に配属された。トラック中隊は、農場本部のある二龍山屯内にあり、ここで、自動車に関する技術に触れるほか、生活の面でも、基層の生産隊に配属された連中より、ずいぶん楽であった。

トラック中隊には、約三十台ほどの旧式トラックがあり、半分ほどは、朝鮮戦争さがりの「ガス五一」か、五四型という古いソ連製の四トン車であった。「五一」とは一九五一年型のことであり、運転席は木製だったと記憶している。やや新型のトラックには国産の「解放」という六トン車があるが、これもソ連の援助で五十年代後半、長春で作った第一自動車工場の製品である。

トラック中隊には、我々北京から来た六九届中卒生十数人のほか、天津市からきた老三届の十数人と、地方の生産隊から運転見習いのため選抜された上海、ハルビンなど各地の青年もいた。中の一部は、幸運にも運転助手になり、のち免許を取り正式の運転手となった。この仕事は、農場にきた数千名の知識青年が一番あこがれた仕事であろう。

僕も運転手になりたかったが、近視で落とされ、メンテナンスの小隊に分属され、今で言う自動車整備士になった。

トラック中隊での仕事は、冬の場合朝五時頃から始まる。厳冬の中、エンジンを始動させるのは最初の仕事である。オイルバーンががちがちに凍っているので、炭火で数十分オイルバーンを暖めなければならない。そのうちラジエターにお湯を注ぎ込み、幾分温まってから、人工でエンジンのクランクを回して、点火を試みる。毎朝、薄暗い駐車場に炭火、オイルの臭いがたち混め、エンジン始動時の甲高いうねりが鳴り響く。点火調整不良のため、クランクが逆転し、戻ってくるレバーでけがすることも、しばしばあった。エンジンの起動は運転手たちの仕事だが、我々整備工も待機し、多発する故障の解決に助けなければならない。厳冬の朝、詰まった油路を口で吹こうと、唇の皮膚がぺろりと剥けたつらい経験もあった。

 

「階級の敵」

トラック隊を無事に送り出すと、今度は修理、メンテナンスの仕事に戻る。きついのは外でトラックの車台を支える弓状のバネの交換であり、楽なのは室内での、エンジンの解体修理であった。トラックは想像を絶する過酷な条件下で使われたので、修理とメンテナンスも決して楽ではない。車台の骨組みは変えないが、エンジンを含めて、主要の部品をよく取り替える。もちろんぼろぼろになるまで使ってからの交換である。エンジンの場合、三回のオーバーホールを経てやく五、六年に一度、新しいものに取り替える。オーバーホールは隣の修理連に頼むが、その前数回、われわれ整備士によるシリンダシール、ピストンリングの交換や、軸受けの交換、研磨などのメンテナンスを受ける。エンジン内部の作業はかなり知識と技術が必要で、元来メカニズムが好きな僕にとって、大変愉快な仕事であった。技術面で仕事全般に責任をもつ人は、姜春友という、僕と同じ名字の、五〇すぎた穏和なおじさんである。いつも知的な笑みを湛え、他の解放軍兵隊あがりの、田舎風の職工と、一風変わった風格をしていた。自動車修理の技術と運転のテクニックは旧農場ではよく知られ、草創期の、彼にまつわる伝奇的な話も多い。一方、この超ベテランの穏和な男は、若いとき技術が買われて国民党軍のため、トラックを運転していた。捕虜となった後、解放軍の軍服を着せられ朝鮮戦争の前線に送られたが、所属したトラック輸送隊はアメリカ軍の激しい空爆により全滅し、彼は独り命からがら中国の境内に逃げ帰った。この行為は戦場からの逃走と見なされ、彼は国民党のために働いた旧罪の上、朝鮮戦争の逃走兵のレッテルも貼られ、ここの強制収容所に送られてきた。反共の言行なく、悪いこともしていなかったので、囚人扱いの虐待こそ受けていなかったものの、解放後十数年、ずっと労働改造と要監視の対象であった。「この男は階級の敵であり、彼の行動を監視せよ」と、配属された日から上からよく言われたが、接して見たらなかなか立派な人間で尊敬心こそすれ、一度も彼の行動に疑念と不審を抱いたことはなかった。ある日、作業場のたらいにあるガソリンが引火し、あわや大火災を引き起こしそうになったが、このとき彼は冷静に上着を脱ぎ、燃えたたらいにかぶせて鎮火した。本当の敵ならこんな捨て身の行動にでるであろうか。そばで慌てふためいた僕らより、彼の姿はこのとき、すごく大きく見えた。技術に関しても、威張ることなく親切に一から教えてくれた。時々自宅から珍重なシカ肉、酒などを職場に持ち込み、我々知識青年に振る舞った。酔いが回ってくると、禁断の朝鮮戦争当時のすさまじい空爆の様子も、ポロリと漏らしてくれた。「張り子の虎」と教えられたアメリカ帝国主義はこんな強いのかと、半信半疑であったが、今思えばすべて真実であろう。当時彼は五二歳、今も元気だろうか。

 

厳冬中の輸送事情

トラック中隊の仕事は、おもに生産、生活物資の輸送であり、農繁期には各分場から収穫物を本部の倉庫、或いは鉄道の駅に運び、冬には燃料の石炭を龍鎮の鉄道駅から各連に運んだ。また一部のトラックは冬にトレーラー車を繋いで、小興安嶺の山地に入り、木材の搬出もしていた。小興安嶺と木材伐採にまつわる話題は、我々青年にとって非常に好奇心をそそるものであった。僕は直接木材の伐採と運搬にかかわったことはなかったが、小興安嶺に行く運転手たちや、また木材運搬に動員された友達から、よく聞かされるものである。深い林海雪原、出没する熊、シカ、オオカミなどの野獣。山珍の猿頭(キノコの一種)、シカ肉だって腹一杯食べられる…。一回だけ、ベテラン整備士姜春友の助手として、故障して途中で立ち往生したトラックを修理するため、山に入り、小屋で数日泊まったことがあった。木材積み卸しの現場も見、雪原にある熊の足跡も観察した。ドラム缶のストーブに白樺のマキが燃えさかる、あの山小屋での静かで神秘的な夜は、今も忘れない。

厳冬の中、燃料の石炭を積み卸しのため、十数回ほど、トラックの荷台に載せられ一時間半の道のりで龍鎮まで往復することがあった。

マイナス数十度の中、荷台に乗って出かけることは、凍傷と隣り合わせの、大変危険な行為であったが、農場の職工も、我々青年も、女子を含めて皆平気であった。綿入れの上下服にオーバーコート、大頭靴、皮革帽といった重武装であったが、ついたとき、足が凍えて完全に麻痺し、いくら叩いてもこれは自分の足だという感じは全くしなかった。荷台から降りることも一苦労であった。また走行中、わずかに露出する顔に凍傷を負うことも、しばしばあった。寒くてたまらなかった鼻や頬から急に痛みが消えると、凍傷のシグナルである。そばにいる人はわかるが、このとき患部が白く変色するのが特徴である。この時荷台にいる仲間が一斉に運転室のトップを叩き、運転手に知らせる。そしてトラックは臨時停車し、道端の雪を拾って患部を赤くなるまで擦る、これで凍傷を直すのである。

当時の道路は、アスファルトの舗装はなく、夏はでこぼこのダート道、冬は、凍結した氷雪路であった。夏場で、トラックは道路中に散在するくぼみをさけながら走らねばならず、ちょっとした操作ミスでトラックが激しくバウンドした。運転席に座ると、頭を天井にぶつけることが、よくあった。このとき、読みの早い運転手から「腰を屈め」と知らされる。運転手の職業病は、上下の揺れによる胃下垂であり、トラックの一番多い故障も、車台を支える弓状のバネの破損であることから、その過酷な運転状況が分かろう。冬になると、道路のくぼみは雪で埋まり、半年近く、やや平らになる氷雪道に変わる。夏ほどバウンドしなくなるが、氷雪道に伴う滑り、スピンの危険がつきまとう。今日本で常識である鉄のチェーンやスノータイヤはもちろんなかった。磨り減ってすべすべになったノーマルタイヤでこうした氷雪路の上を、全速力で走る。木材運搬の時、さらに積載量倍以上のトレーラーを繋いで走った。凍った轍から一歩はずれると、スピンや、転覆を意味する。旧式のガス五一型は最高速度が四〇キロで、解放型も平地で六〇キロ以上を出せないので、死亡事故こそ少なかったものの、立ち往生、転覆、車台破損のような報告、連絡は毎日のように連の事務所に届く。また旧式のミッション車は、いまのようなシンクロ装置はなく、アクセルワークで回転数を調整してからギヤを入れる。アップの時、クラッチを二回踏まなければならず、ダウンの時、さらにアクセルワークを挟む。満載して坂道にさしかかる場合、いくらうまい人でも坂上でのギヤチェンジが利かない。あらかじめ入れたギヤで丘を登り切れなければ、トレーラーごと、谷の方にバックで下がらなければならない。その危険な光景は僕も何回か目撃した。また、冬の山道で故障してエンストでも起こしたら、助けの車が通らなければ、凍死を意味する。

冬季、凍結した川も、臨時の道路として利用された。ベテランの運転手たちから、よく自慢げに、脱輪、転覆、スピンの話を聞かされたものである。

 

農作業

夏の農作業のことを話そう。作物は主として大豆と小麦二種類であり、作業も殆ども機械化、半機械化であるが、実際の作業環境はかなり厳しいものであった。種まきの場合、人が肥料と種を混ぜて播種機の撒き管内に送らなければならいので、幅十メーターもある、播種機の踏み台に四五人が立ち並んで作業する。トラクターのキャタピラーが巻き起こした黒い土煙にさらされ、十分もたたないうち、顔が分からないぐらい、泥人間になってしまう。ゴーグル、マスクなどをかけたにもかかわらず、一日が終わったら、体の芯まで、土のにおいや色に染まる。

もう一つの大変な作業は、大豆畑の草取りである。小麦の場合除草剤をまき、殆ど人の手をかけずに育つのだが、大豆の場合、なぜか除草剤が利かない。機械による除草は、成長期三回ほど、畦に土盛りをして成長の遅い草を覆うという程度のもので、草をもぎ取り、全滅させることはできない。その代わり、大豆が成長期にはいる夏場、人工で草取りをやらなければならない。この時期になると、農場全体が総動員にかけられ、トラック中隊の我々も人手を捻出して「応援」に出る。トラックに草取りの道具、お湯(飲用)いりのドラム缶を積み、荷台に人間がいっぱい乗り込み、赤旗をさして現場に向かうのである。僕の太股に火傷でできた傷跡があるが、それは、草取りに向かう途中、トラックがバウンドしてドラム缶のお湯がこぼれた時残った記念である。

草取りは大変つらい作業である。大規模機械生産の耕地は面積が広く、畦の長さは数キロにも及ぶ。畑に立って見ると、見渡す限りの緑の畦が波を打って地の果てまでまっすぐにのび、なかなか壮観である。作業は横並び式に行われ、各自畦一本を守って前にすすむ。もちろんしゃがんで作業すると腰が持たないので、人の背よりも長い鍬のような農具を操り、立ったまま一歩一歩前へ進む。僕が十八連にいた頃、畦長三三〇〇メートルもある畑でよく除草をした。畑の突き当たりに行くと昼休みを取り、戻って来たら一日が終わる。夕方日が沈みそうになる時、さっさと引き上げないと、蚊の大群が襲ってくる。帰り道にみんな草の束を手にして、わずかに露出した顔、首に止まった蚊の群を追い払うのである。

大豆の草取りよりさらにつらい仕事は、小麦、大豆の人工刈り取りであろう。普段の場合、この作業は機械に任せ、人の手を煩うことはないが、天候不順の年、収穫時水浸しで機械が動かなくなると、人工でそれを代行しなければならない。

「北大荒」の表層土は色黒く、細かい塵状、砂地状なようなもので、植物はこの上生息する。しかし、この表層土は約六十センチしかなく、掘り下げるとすぐ堅い粘土状の層に当たる。普段、キャタピラー式のトラクターで表層土の上で作業すると問題はないが、集中した雨が降ると、雨水が粘土状の地層に達すると逃げ場はなくなり、表層土はたちまち水で飽和し、畑は水田風景に変わってしまう。もちろんこのようなとき、機械を使えない。八月、九月の刈り取りの時期、よく集中豪雨が降るので、成熟した小麦や大豆が刈り取れずそのまま水が引くまで放棄することも、しばしばある。

そのときになると、無駄な刈り取り「大会戦」が行われる。

ちょうど僕らがここに来た一九六九年は水害の年であり、来た途端、上からの総動員で小麦の刈り取り作業にかり出された。九月あたりになると、気温がかなり下がり、六〇センチぐらい深さの泥水から裸足引きずりながら小麦を刈り取る作業のつらさは、とても口で形容できない。最初に長靴を使う人もいたが、すぐ浸水してしまうので、かえってじゃまになる。女性も男性と同じように動員されるので、こうした冷たい水に一日数時間立ち続けると、関節障碍、生理不調を訴える人は続出する。刈り取ったわずかな小麦はさらに束ねて高い地勢のところに運ばなければいけないので、作業の効率は至って低い。こうしてせっかく収穫したものも、黴びたり、発芽したり、とても国家に納めるほどの価値はないので、結局自らの食卓に回ってくるのだが、前述した発酵しないねばねばの黒い饅頭は、このような労働の結晶である。

 

反抗

僕はトラック連で約一年間働いたが、血の気の多い若い青年、まして毛沢東を狂信した「造反」派、紅衛兵の経験がある故、思想の旧い連の指導層に反抗的であった。連の指導幹部の大半は、五〇年代半ば解放軍から転業してきた復員兵で、強制収容された元囚人たちを管理、監視する役目も与えられていた。そのうち、家を建て、嫁を取り元囚人らとともに根をおろし、農場の職工になったのである。外見から、どっちが管理側の元解放軍、どっちが被監視側の元国民党軍か、よく分からないが、内部には厳然とした階級、階層の線が引かれていた。会議、学習、そして生産面で連を指導したのはもちろん、元解放軍出身の人たちである。年はすでに四十の半ばを過ぎた人が多く、十数年も平凡な家庭生活とつらい農作業などを経験したせいか、みんなだらしない格好と憔悴の顔をしていた。我々がかつて憧れていたあの、偉大な人民解放軍戦士のイメージは、彼らと露程も結びつけなかった。彼らも、毛の一声でどっと送られてきた大量の都市青年の受け入れに好意的ではなく、ときどき青年との間にトラブルを生じた。

年長の天津組の青年とともに「造反」に立ち、連長打倒、古い指導層の退陣を求めた私は、結局彼らの恨みを買い、一年のあと、敢えなく数人の仲間とともにトラック連から追放された。しばらくの間、僕だけは隣の服務連(流通、配給を管轄する中隊)に転属し、三ヶ月ほど、二龍山駅に近い村で、売店の店員をしていた。算盤はここで覚えた。駅は農場の玄関口であるので、この村には、農場経営の、小さい料理屋、売店、理髪店と食品加工(豚の解体)場があった。服務(サービス)連という仕事柄の故、ここでの生活は特に食生活の面で、ほとんど不自由はなかった。加工場から横流された豚の内蔵類をよく食べたほか、特権を利用して料理屋を食堂代わりに利用したこともあった。油がたっぷり浮いた酸菜(発酵した白菜)スープのおいしさは、ここで覚えたのである。また周りの若い女性に囲まれ、いつもうきうきした気分でもあった。田舎娘の売店の先輩におっかけられ、夜道で体が触られぎょっとした出来事もあった。もともと、ここでの安逸な生活を送っても差し支えはなかったはずだが、しかし、若くて理想にもえた「革命青年」の僕は、なぜかこのような生活を「修正主義」の堕落と勘違いし、思想改造のため、自ら基層の連への下放を申し出た。まもなくこの馬鹿げた申し出が認められ、僕は田舎の純情娘や、売店の女経理との恋に落ちる前、屹然と関係を精算し、納莫爾河畔に位置する第三営(分場)下属の一八連に赴いた。一九七〇年一月、一七歳のことである。

 

思想改造

こうした型破りの思想改造の志願は、もちろん種々の風説を伴い、僕も反抗的、また反党的という要注意の身上調書がつけられ、あたかも思想犯のように一人で一八連に送られたのである。

出頭するやいきなり牛舎の勤務を命ぜられ、仕事の面で生産隊の青年たちと厳密に隔離された。牛舎には現地人のおじいさん一人と、その障害者の息子が住みついて牛、馬の世話をしており、昼には御者職の現地人の中年男数人も、時々来て雑談などをしていた。

おじいさんとその息子は飼育役であるが、新入りの僕は、一番下働きの仕事、牛馬糞の掃除を命ぜられた。

牛も馬も主として輸送手段に使われるもので、数はあわせて二〇数頭はいよう。毎日の仕事は、数回糞を集め一輪車で牛舎後ろの糞場の山に運ぶことである。手が空いてから、牛や馬を引いて村はずれにある井戸まで、水を汲み上げ飲ませるのも日課であった。糞集め、運びの仕事にすぐなれたが、北風の中、五〇メートルも下から轆轤を回して水を汲み上げる作業はつらかった。夜も掃除の仕事があるので、僕は一日の大半を牛舎で過ごした。休憩の時、僕も現地人と同じようにおじいさんの部屋のオンドルに上がり、息が詰まりそうな、強い地タバコの煙に咽びながら、薄暗いランプの下で、生まれ故郷の二龍山しか知らない、この底辺の農民からつまらない話を聞かされたのである。

この牛舎で、僕独りは、文句一つなく三ヶ月ほど、昼もなく夜もなく糞まみれに働いた。この間、他の知識青年との交渉もほとんどなかった。「この男は、きっとなんか前科があったろう」――牛や馬を引いて井戸に赴く途中、連にいた青年たちはよく立ち止まって、この謎の、不思議な外来者を眺めた。食事は同じ食堂で食べるが、渾身上下、ぷんぷんと牛糞の臭いがしたので、近寄って話し来るものも、少なかった。

 

トラクターの運転助手

僕の働きぶりはいつの間にか連の指導部で評判となり、農耕が始まった四月、僕はこの生産隊で一番あこがれた部署、トラクター班に配置転換されたのである。

農場のトラクターは五四馬力のキャタピラー式のソ連製が主流で、他には国産の改良型(ソ連援助の工場で造られた)、「東方紅」七五型もあった。全部で五台前後だったかと覚えている。両手で左右のレバー(クラッチ)を引いて方向を制御し、戦車と同じ仕組みだと聞いている。

トラクターの仕事は各種農機具の牽引であり、整地、播種、大豆の畦づくり、収穫など、ほとんどすべての農作業に使われていた。機械不足のため、昼夜二交代で休みなく働いた。ガラス張りの運転席に座って作業するとは言え、キャタピラー、ジーゼルエンジンの轟きとトラクターが巻き起こした黒い土埃の中、一二時間に及ぶ神経が尖った労働は、大変な忍耐と体力を要した。交代する時、トラクターを降りただれもが、顔が真っ黒に染まり、よろよろしてまっすぐに歩けないぐらい、惨めな姿であった。

しかし、自動車整備と同じように、僕はこのメカに関する仕事を気に入り、北京からトラクター関係の書物を取り寄せ、短い休憩時も、メカニズムの研究に励んだ。先輩や同僚のように、早くまっすぐの大豆畦を作れる、熟練の運転手になりたかった。

トラクター作業班での数ヶ月の間に、一度は周囲の村へ「生産支援」を命ぜられたこともあった。この時、我々のような大農場は自ら「軍」(解放軍の予備軍)と自称し、周りを「民」=農民と見ていた。軍と民の関係は毛沢東の言葉で言うと魚と水のようなもので、軍が民を助けるのも、義務のように位置づけられた。農民の要請をうけ年に数回周りの村へ、土地整理、播種、収穫などの支援に出かけたのである。

もちろん、理屈の上では軍民の相互援助、助け合いというのだが、実際彼らにとって、無報酬しかも非常に重要な助けになるので、我々の支援隊に対する歓待も、大したものであった。一日三食に、薄面餅、卵の炒め、肉など、農場では想像に絶するごちそうがふんだんに振る舞われ、ほんとうに嬉しかった。夜は、村の一番大きい家に入って宿泊するが、住宅事情が狭い東北農村で、三代同室が普通であった。室内にはオンドルが南北二面あるが、我々は南の一面が提供された。家の三代、老若男女の七八人は、北のオンドルで寝ているが、深夜、若い夫婦の行為は、蒲団の中で遠慮せず行われたのである。もちろん、声をかみ殺して…。

 

入院生活

トラクター班での仕事は結局四ヶ月ほどしか続かず、夏のある夜勤のあと、心身ともに疲れ果てた僕はとうとう高熱を出して倒れた。熱が下がった後、全身の皮膚が死人のように黄色く変色し、僕は牛車に揺られて二時間をかけ、十数キロほど離れた農場本部の診療場に運ばれた。診断の結果、重症の急性A型肝炎である。当時、この伝染病が一八連で流行し、知識青年は三分の一ほど、前後にこの病気で倒れたのである。診断の結果を聞いたとたん、僕はがくんと肩が落ちた。肝炎とは当時、一生に響く、また非常に完治しにくい重病だと、聞いたためである。

その後、僕は北安県の町にある、旧農場系統の専門病院に入院し、三ヶ月ほどの治療と休養生活に入った。これほど長くいられたのは、伝染病の病原を封鎖するためである。僕らがいたのは、病院の本部と幾重の門で隔離された、伝染病棟であり、肝炎の外、隣の棟には真っ白な顔をした、痩せこけた結核患者の青年たちも入院していた。ここでの生活は非常に快適で楽しいものであった。病院食の栄養は農場のそれに比べものにならないほど豊富であり、そのほか、愛児が北大荒で倒れたことを聞いた知識青年の父母たちも、現金のほか、缶詰や粉ミルクなど貴重な栄養品をかき集め、郵便で病院に届けた。僕のところにも、山東省の農村にいた父母から、落花生など栄養品のほか、一度は百元という、僕の三ヶ月分の給料にあたる大金が送られた。北安の町で、自分で好きな栄養品を買え、という。思えば、親たちも僕と同じような下放の身であり、ちょうどこの時期、父も僕と同じように、後命取りのB型肝炎に感染して苦しんでいた。わが身省みず子を想う親心に、本当に感謝に堪えない。

治療時間の外、僕らは毎日のようにそっと抜けだし、町の見物の外、自由市場で卵など栄養品などを買いあさった。病院で火をおこせないが、コップにお湯を注ぎ五分ぐらい卵を漬けると半熟になるコツも、同室の先輩から教わった。

治療は最初には点滴が中心だったが、病状が安定すると、治療せずに体力の回復をまつ方法がとられた。同室の十数人は全部下放の青年で、生活環境の好転か、みんなの回復が早かった。数ヶ月で退院し、その後慢性肝炎に移転するケースはほとんどなかった、と聞く。ただ、一度肝炎にかかった以上、一生にわたってアルコール厳禁、献血厳禁の二つの鉄則が医者から言い渡された。僕は十年ほど我慢した末、前者の鉄則を破ったが、後者についていまも守り続けている。

 

医療事故

過酷な生活環境から解放されると、僕の病状は見る見るうちに安定した。一方、仕事をせず栄養分ばかりをとるので、体は太り始め、年末北京に帰った時、別人のようだといわれた。

病室係りの医者には、佳木斯医科大を出たエリート外科医がおり、文化大革命中「政治問題」でここの伝染病科に左遷させられた人物だという。いつも病室に来て、我々患者と「小道ニュース」(政治風聞)を交換したり、政治動向や、世界情勢などについて高談したりして、病気の治療にはさほど熱心に見えなかった。入院中の青年には北京の高幹の子弟が多く、彼らとの話を通じて内部の秘密を探るのが、目的であろう。

時々、針灸針一本をもって病室を回り、針治療といって患者にツボ刺激の治療を施した。針治療は裸足医者(無免許の労農兵医者)とともに、文革で生まれた新生事象であり、針一本で、麻酔しなくても手術が出来、薬がなくても万病が直ると、新聞やラジオが大々的に宣伝した。これを信じ医療関係者以外の普通の人や、子供まで針を買って自分のツボに刺したりした。文革の成果という政治宣伝の意味があるかもしれないが、本当に肝炎に効くかどうかは、疑問であろう。

元々漢方医ではないためか、打たれた針はよくツボをはずれて骨に当たり、その都度、先生は指で曲がった針を直し、次の患者に刺したのである。不幸なこと、ちょうど僕の番が来るとき、針の先が折れた。大椎という首下のツボを刺したときの出来事である。折れた針先はやく一センチ、第一と第二脊椎の間に挟まれた。

いつものんきな顔をしたこの先生はさすがに顔色が変わった。外科医だったので、皮膚を切開しても、神経集中の脊椎の間から細い金属の針を見つけて取り出すことの難しさをよく知っていたからである。そのほか、元々の「政治問題」の上、医療事故と報告されると、彼の医者としての生命がこれで終わるかも知れない、という後ろめたさもあっただろう。彼は直ちに僕をレントゲン室に連れて行き写真を撮り、また手術担当の外科医とともに、綿密な手術のプランを作った。場合によって十字切開もやむを得ないと説明された。翌日手術された時も、ずっとそばにいてアドバイスをした。幸い手術がうまくいき、皮膚の切開と同時に針を見つけ、切開口一つ手術がすんだ。僕は、首筋の傷痕一つで難を逃れたが、彼もこの事故で職を追われることはなかった。

医者の他、僕らより数歳上の看護婦数人もおり、注射、点滴、配膳などの番を担当した。暇な時、好んで病室に入り、弟のようなかわいい都市青年と雑談をした。僕は中のハルビン人の二〇代後半の美人婦長に片思いを寄せ、一時かなり悩んだこともあった。文化大革命のせいで、看護訓練を受けてもレベルが低く、静脈注射も一回で針を血管に入れる熟練者はほとんどいなかった。美人の姉さんたちであるため、だれもが文句一つ言わなかった。

三ヶ月後退院した僕は、これまでのような「革命」の意気込みがすっかり消沈し、厳冬の到来もあり、僕は継続療養の口実をつくって北大荒を離れ、約半年の間、北京の臨時寓所の外、父母のいる山東省の幹部学校などを転々と、療養生活を続けた。

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