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半軒亭雑感

 家を買った。人生46歳にしてやっと「一人前の男」のステータスを手に入れた。『論語』には「三十而立」の言葉があり、元来、学問の自立をいう高雅な意味だが、俗世間に冒涜され、いつか知らぬが、「家を建てる」の物差しに成り下がったそうだ。この基準に比したらずいぶん出遅れているが、あまり気にしていない。なにしろ孔子の世は短命の世であり、「四十不惑」、「五十知命」以上の表現を用意する必要はなかった。古希、米寿はもとより、白寿も珍しくない今の世において、この言葉も現代風にバージョン・アップする必要はあろう。もしかしたら、「四十而立」に改めた方が適当かもしれない。そうしたら、たった六年遅れだし、四十「代」を越えたわけでもなく、また周りの連中と比べて見ても、さほどの落ちこぼれとは言えない。ただ、自分はずっと家を持たない主義で通しており、男を負かして、発案、下見、資金繰り、契約までほとんど女一人でこなしたので、本当に一人前になったのは、うちでは男ではなく女の方かもしれない。

 

 30坪の土地に30坪の建物。「世界一」の地価といわれる東京の区部に位置するので、値段もそれなりに高い。どれほどの値打ちか、いくら説明されても、その意味がよく分からない。生来、一円玉も二つに分けて使いたいほどの貧乏な素性なので、その数字は僕の目には意味不明の天文文字に映ったわけである。「同じ坪数だったら、岡山で家三軒ほどたてる」、という。また、「支払総額は、利息も含めたら一泊一万円のホテルに死ぬまで住み続けられる」ともいう。こういわれると、なんという馬鹿なことをしでかしたのか、と泣き出したい思いだが、逆に考えたら、これだけのものを手に入れたことは、我が人生の壮挙ではないか、と。もしかしたら、これで自分も資産家?…まことに有頂天な話だ。もちろん、資金の八割五分も銀行のローンのお世話になったので、晴れて有産階級の仲間入りを果たせるのは、二十何年も先の話だ。でも、やはりその気分だけ、先に味わってみたいものだ。どうせ資産家になるなら、老耄の体でボロになった古家での「実感」より、ペンキ塗りたての新宅での「虚感」のほうが、味がずっと濃いのではないか。借金の理屈から言えば、「借感」の方も別に不道徳でもない。    

 

 これまで、東京で家をもつことは、あまり考えていなかった。「主義」といえば聞こえがいいが「夷」民族という不安定の身分の上、物件が高くて手が届かないのが本音だった。しかし、昨年、妻が突然家を買いたいと言い始めた。月々馬鹿にできない家賃を払っているのと、周りの人がみな一軒家を買ったのが、理由だった。他人の真似をするという、ご立派な大和式の発想である。まるで住宅公庫からの融資資格さえ持たない我が立場を忘れたのかのように。同じような人生経験を持ったはずの妻だが、いつこうした発想を身につけたか。最初は不思議でしょうがなかった。が、「お父さんとお母さんは中国人、僕は日本人」と言い張るおてんば娘夏琳(八つ)の話と、「留学」先の学校で「小日本」のあだ名を甘受し、身を挺して日の丸のために弁護する息子夏聡(一四才)の敢闘ぶりを思い出すと、まもなく納得した。「郷には入れば郷に従え」――人間って、元もとそういう動物だなあ、と。    

 

 妻の執念に負けて、しぶしぶながら家を建てることに同意した。が、なぜ、世界一地価高の東京で家を持たなければならないのか、東京でウサギ小屋をつくるぐらいなら、同じ額で田舎に「豪勢な」家を建てた方がずっと見栄がいいのではないか、と異議を申し立てたが、押し通す力はなかった。それなら、限られた予算で環境を優先に考えたいと僕は一歩譲ったが、閑静と日当たりの条件はどうも大東京では通用しそうがなかった。

 八月の下旬、帰国し損ねて浮いた時間を利用して「一勉強」をしようと、チラシにある電話番号をダイヤルしたら、一時間もしないうち、不動産屋が自宅の入り口に高級車で乗りつけてきた。悪夢の始まりだ。それから一週間、毎日のように、複数の不動産屋による電話攻め、案内攻めに苦しんだ。ベル鳴り出す度に、背筋が寒くなるほどだった。自分が選んだ物件なら、下見に行くことに抵抗はないが、不動産屋につれ回わされ、見たくない物件をムリヤリに見せつけられるのがすごく嫌だった。もともと人間不信のAB型で、貧乏学生の時代、門前払いを食わされた恨みもあるせいか、僕の目には不動産屋のすべてが悪徳商人か、敵かと映った。「人間を信じる」モットーで交渉に臨む妻の誠実な姿勢と折り合いがつかず、幾日か家庭内に気まずい空気が漂った。とうとう僕の神経が疲れ果て、妻の説得と商売人との真剣勝負にお手上げした。数軒の物件を見ただけで僕は敗退し、妻に全権を「委任」して早々に岡山に逃げこんだ。物件を見てから一週間あまりの、八月二九日であった。思えば、最初から負けに負け、完全に負け戦だったのだ。

 

 妻は交渉の責務を立派に果たしてくれた。「家を買いたいなら不動産屋と友だちになれ」という不動産情報誌の謳い文句をすなおに受け入れ、なにもかもぶちまけて不動産屋の助けを求めた。息をつぐ暇もないうちに、「物件を決めた」との連絡が入った。岡山に着いて二日目の夜のことである。この物件は帰岡前日、夜八時を過ぎても解放してくれず、最後の付け足しチャンスとして見せつけられたものである。僕もその場にいたが、疲れ、飢えと暑さの不満だけ残り、物件の内容はあまり覚えていなかった。しかし、妻はおおいに気に入ったようだ。「洗面所にある大きな鏡狭くない風呂場とリビングの三角形の天井」が、その理由だった。さすがに女の感!夜にしか味わえない内部の醍醐味だ。白日ではパッとしない外見を庇う不動産屋の「夜間作戦」が見事に成功したようだ。

 翌日、幾分の値引きと引き替えに即時契約させられた。勿論、僕の同意を取り付けた契約である。不動産屋の指示で、妻一人で不動産屋に出向いた。後で分かったが、これは、クーリングオフ(解約猶予)が利かないずるい契約方法(不動産屋で成約)である。相手はやはりカモ狩りのプロだった。こうして、家探しからたったの十日間、見た物件をあわせて十数軒、洋服を買う感覚で我が人生の最大の買い物をした。買ったと言うより買わされたのだ。いま考えてみると、まことに暴挙だった。    

 

 勿論、後悔もした。自分のあまりの無責任さに自分でさえ呆れるほどだった。三〇〇万円を超える手付け金を放棄するまで契約を解除したいと思いもした。しかし、ただの思いにとどまった。「好事も無きには如かず」を信条とする弱い僕には、そこまで意地を張る気力がなかった。また金というより、そのため一所懸命になった妻の心を傷つけるのをさらに恐れていた。いつものように、時間や阿Q式の瞑想で悩みを紛らわした。――バブルの時買うよりずいぶん得だろう!副都心の新宿より直線距離わずか四キロ!閑静住宅地にあるありがたい30坪!…そして「洗面所にある大きな鏡、狭くない風呂場とリビングの三角形の天井」…。こうして、毛沢東時代に修得した阿Qの精神はまた、敗北者の僕を救ったのだ。数日も経たないうちに、敗北者の苦悩は次第に「資産家」の誇りに変わっていった。既成事実を受け入れ、この家と長くつき合う覚悟もできた。もちろん、物理的に家の方がそこまで長持ちするかどうかは別の問題だが。

 

 一番気になるのはやはり見栄である。せっかく手に入れた家だが、どこから見ても「一軒家」に見えず、ただの半軒にすぎないのだ。二軒では建築基準を満たさぬため、「将来の二軒」として起工したそうだ。実際に審査基準をパスしたのは一軒なので、隣と屋根も壁も棟続きになる格好である。「壁は二重であり、屋根の葺き材も綺麗に分かれる」という売主の説明だが、外見上、気持ちのうえで素直に受け入れられなかった。入居する直前、売り手側の努力で、我が家も「一軒屋」として認可する書類が渡されたが、僕の目には、半軒屋のイメージがに変わりはなかった。「一軒」となったのは登記簿上の一軒で、精神的な一軒であり、見栄の一軒ではなかった。屋根続きの形は前と少しも変わりがなく、火事にも、地震にも、将来の取り壊しにも隣道連れの連座式なのだ。

 次に気になるのは日当たりである。南から北へ低くなる反斜面に立っているので、南向きはぱっとしない。うちの二階に相当する高さから、一〇〇坪以上の敷地を持つ古家が立っていた。古屋の緩やかな屋根伝いに、やっとのことで、可憐な日差しが二階のリビングにこぼれおちる。一階は勿論全滅、昼間も明かりのいる闇地獄である。直射に近い夏場でこのありさまだが、日差しの角度が低くなる冬はどうなるか。さらに若し、数年後、前の古屋が取り壊され、分売され、建坪率一杯の数軒の家が目の前で聳えたつと、もはやいまのように日差しのおこぼれも乞えないだろう…。僕は不安になった。もう考えたくなくなった。さあ、また阿Qの出番だ。――もしかしたら、この古屋は五年後に取り壊され、公園の緑地に変わるのでは…。

 

 気を紛らわすため、「雅号」をつけることを考えた。買うのに面倒くさがり屋の僕だが、手に入ったものに文字で悪戯するのは、別に嫌ではなかった。いろいろ思案した。「半軒箱」、「半軒屋」、「半軒堂」が最初に候補に挙がったが、最後に「半軒亭」と決めた。薄っぺらの構造から、本来「半軒箱」が一番ふさわしいと思っていたが、他人の住処ならとにかく、どうせ自分たちが入居するものなので、自虐しすぎると家も家族もかわいそうだ。それなら、優雅に行こうと、思い切って「箱」を「屋」に、さらに「亭」に変えた。想像してみよう、軒先の半分だけが緑陰から突きだす山中の孤亭…優雅、優雅!快哉、快哉!昔、貧乏な文人もこうして、茅舎に優雅な号をつけて精神上の安らぎを求めたそうだ。見た目には「半分の箱」にすぎないが心の中は桃源郷の半軒亭なのだ。古諺いわく「好けば痘痕も靨と見ゆれど…」、結局、見栄の問題も慣れであろう。「一念三千」。その後、僕は敬虔な気持ちで密かに目の修行を始めた。頭の中でひたすら半軒亭のイメージを描き続けた。「箱」が「亭」に見えるのは、いつになるのかなあ…。    

 

 家を購入し、より快適な生活と引き替えに何を失ったか。夜更け眠れぬ時、僕は静かに考えた。自由の喪失、アイデンティティの喪失だ!家の購入によって僕は否応なく二つの運命共同体に再編された。まず、日本とは切っても切れない関係になった。

 日本に移り住んで十五年を越えたが、貸し借りはなかった。住まいは賃貸だし、仕事も契約制だった。将来の保証がない代わりに、へらず口を自由にきけたし、敵をいくら作っても別に怖くはなかった。やばい、危ないと思えば、いつでも海外に脱出できる身である。しかしいまは違う。日本国民から借金する身となり、もはやきついことは言えない。日本がイヤになっても、借金を踏み倒して海外に逃れる道はない。いや、デメリットはそれだけではない。低金利の今時なら、銀行のローンでしのぎ、自分のアイデンティティ(国籍)をなんとか維持できるが、これからもし金利が上昇し、返済の事情に迫られたら、低利の住宅公庫の融資に借り換えるため、面子を捨て「陛下の臣民」になるしかない。つぎに、人生の価値が増し、妻ともいっそう緊密な「運命の共同体」となった。それは決して「一人前の男」らしい感情面の熟成ではなく、借金返済のためである。いままで、感情と子供は、夫婦二人の関係を結ぶ要素であったが、いま、その上に連帯保証の債務者としての法律上の責任が負わされている。借金は二人の名義で行い、権利も二人で分けた。一人の力ではとうていこの巨額の借金を返せない。もう死にたくても死にきれず、自殺の自由すらないのだ。

 遊びの人生、わがままの人生はこれで終わりだ。子供のためにも、我が将来のためにも、二人は異体同心死に物狂いで稼ぐしかない。せめて後二十年、生き延びたい。嗚呼!神様、仏様、私たちの願いを叶えたまえ!我が「半軒亭」のために。南無阿弥陀仏、アーメン。(1999年11月1日入居)                                                                                            11月12日半軒亭書斎にて稿

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