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現代陵墓談義

 気づいたときはもう遅かった。またこの二度と見たくない忌まわしい所につれてこられた。第一回目は、たしか四年前だったと記憶している。

 

  南京を訪れる観光客は例外なく、いやでも必ずあの紫金山にある巨大な中山 陵に案内される。中華民国の建国の父、孫文(中山)の墓である。山の斜面を利用した、13万平方メートルを有する雄大な建築で、面積も高さも、エジプトの最大のピラミットを凌ぐ。挙国の行事として工事が1926年3月からまる三年間かかり、総工事費が時価242万元といわれる。しかも、この風水、方位の相は、三民主義(民族、民権、民生)を掲げた孫文が生前に自ら指定した、という。

 

 山の麓に、明朝 の創始者太祖朱元璋 も眠っているが、その陵の規模は孫文の何分の一にも及ばぬみすぼらしさである。山頂の孫文に嘲笑うかのように毎日見下ろされている明朝太祖の憤怒は、いまにも墓の壁を突き破りそうだと感じる。かつて、私は、北京郊外にある現存最大の明皇室の墓地である十三陵を見学したことがあるが、全体の布局はともかく、個別の墓の規模の点では、はるかに中山陵に及ばない。また見に行く気はまったくないが、北京市中心の特等地には、華麗さと豪華さ、また総工事費の面で中山陵を超えた毛沢東の陵(記念堂)もある。死体がガラスのケースに入れられ、いまでも毎日他界(地下室)から現代文明のエレベーターにのって娑婆に君臨するそうである。

 

 

 

 もっとも、お墓が好きなのは中国の帝王だけではなく、インカ帝国の首領、エジプトの王さま、日本の天皇と古代の豪族もそうである。死後なお安定した贅沢ざんまいの生活を送ろうという願望からきた権力者たちの癖だと想像されるが、実際、棺桶さえ作れない貧しい「臣民」の亡骸は、この巨大な陵墓の深層に眠っている権力者よりはるかに安全のようである。エジプトのピラミッドの盗掘はあまりにも有名な話だが、孫文の亡骸もいったい台湾にあるのか、南京にあるのか、なお謎のままである。死んでから亡骸が掘りだされ侮辱されることはもちろんのこと、「尊敬」されるといっても、死後五年、遺体が北京西の香山から掘りだされて列車に乗って北京から南京へ運ばれることは、けっして楽な旅ではな かったと想像されよう。死んだ後も安からに眠れないのである。

 

 

 

 あるいは静かな吉相の風水地で眠る価値より、華麗な所で生前の権威を死後もほしいままにできる毛沢東の「他界の哲学」を羨む人がいるかも知れぬ。が、せっかくあの不朽の化学薬に漬け込んだ死に顔を見にくる大半は、朝礼者、崇拝者ではなく、おもしろ半分の観光客や、途方に暮れた「政治授業」の振り替えに駆りだされた小、中学校の退屈そうな生徒であることをもし他界の毛さんに伝えられれば、このかつての「赤い太陽」は、棺桶から飛び出してくるであろう。ちょっと冷静に、それはまだ贅沢な話である。今は、見物の価値がなくなれば、スターリン式の“待遇”(赤い広場からの撤去)がいつ訪れるかも知らぬ情勢である。これを知るとガラスケースの向こうに閉じこめられた毛さんはたぶん後悔するであろう。残念、残念!もはや口が聞けぬ。

 

 陵墓は、歴代皇帝の生前の権力を象徴するだけでなく、封建政治特有の文化史的現象ともいえる。しかし、奇妙な現象は、現代の陵墓文化が封建的衣鉢をそのまま継承したにもかかわらず、入居した君主らは例外なく、「為公」や「民主」の美名を自ら冠している。孫文の名言は「天下為公」(政権は公のため)だが、毛沢東も負けじに「為人民服務」(人民のために奉仕する)を掲げている。「徳」を積んだ後、潔く賢明な「早死」の道を選んだ孫文の場合、陵墓のことを除けばその公的人生に「天下為公」の理屈をこじつけられるが、人民共和国建国後、皇家の公園を占居し、二十五等級もある公務員制度の天辺から下界に君臨し、君主の特権をほしいままにした毛沢東の振る舞いを見れば、とても「為人民服務」の匂いが感じられぬ。さらに天下を取っても安逸な特権生活に満足せず、自らの政治理想のため実験台に千万もの臣民の命を賭けた文化大革命の暴挙を思い出すと、この言葉の意味がなへんにあるかは、ますます理解し難くなる。

 

 

 

 八月の炎天下で、中山陵の千段もあろう石の階段を昇り詰めた私の目には、塩味の汗が目にしみこんだせいであろう、巨大な廟堂の上に刻まれた孫文自らの揮毫といわれる「天下為公」の大きな横額が、どうしても歪んだように映る。毛沢東の共産主義だけではなく、孫文の三民主義にも何か大事な要素が欠けているように思えてならないのである。  墓室の後庭にある「三民主義」の碑廊に案内された時、私の疑問に答えるように、ある文言が眼底に飛びつく。「三民主義の定義を簡単に説明すれば、民族主義である…」という。孫文作『三民主義』の冒頭である。なるほど、「三民」といっても、建前と本音の区別がある!孫文や毛沢東にとって、「民権」「民主」とは近代社会への入場券であり、民族革命、共産主義革命の目的を飾る看板にすぎないのである!1919年の五四運動以来、帝国主義に反対する民族革命の概念が受け入れられたが、長い封建社会の伝統を覆す「民権」、「民主」という概念は結局民衆の心に根付いていないといえる。  

 

 

 麓を見おろすと、燃えるような酷暑と格闘しながら、したたかな、蟻のような群衆がつぎつぎと登ってくる。巨大な陵墓とコントラストして、その小さな姿がますます可憐に見える。まるで四千年封建専制の歴史の縮図のように…。しんと、ある種の言語の表すようのない虚しさが、わたしの骨髄の隅々まで浸透してくる。  肉で血で四千年の中華文明を築き挙げたあげく、斃れて傷だらけの身体を引きずって呻吟するわが黄色の大地よ、帝王の輝かしい歴史の章節を書き上げるたびに、自己の存在が小さくなっていった我が民よ…。この中華文明の真価を認識する日は果たして来るであろうか。
(『ケヤキ』岡山大学教養学部報、1994ー4)

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