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記録する歴史と生きる歴史

 生きている歴史と記録されている歴史がある。どちらが正しいか、判別は難しい。学問の角度からすると、聞いた「お話」より、出処が明確に記録された文字歴史の価値が高いようだが、実際上必ずしもそうではない。


 自分を例にして恐縮だが、私の公的記録には、真実だった三年間の農村「下放」、三年間の人民解放軍服役の履歴は存在しない。逆にありもしない「高校」の経歴が書かれているのだ。もう後のない今だからこそ言える話だが、私の履歴は、六〇年にも満たない人生の中、二回も改ざんされていたのである。


  一回目は軍入隊時の、「檔案」(共産党による人身管理のための公式身上調書)の作り替えであり、二回目は日本留学のための、学歴の偽装工作であった。もちろん両方とも私の悪作為ではなく、公的組織によるものであった。前者は、入隊時お世話になった解放軍第六七野戦軍の軍長の指示による「改ざん」であり、後者は国費の留学生を派遣する、政府の教育省による「不正行為」であった。私の入営、留学のため図られた「便宜」とされるが、その結果、自分の真実の人生は二回も「抹殺」されたことになる。


 もし自分が死ねばこの秘密は誰も知らない歴史の謎になりうるが、あいにく当の証人がしぶとく今生きている。いまの私は、生きた証として履歴上の自分ではなく、真実上の自分を立証しようと、証拠の捜索、保管に力を入れようとしている。これは歴史学が私に与えた知恵であろうか。


  数年前帰国した際、古い書類から三五年前の軍人退役証書が見つかり、現在身辺において大事に保管している。しかし、やっかいなことは、一九六九年八月から一九七二年一二月の下放時の証拠はなかなか見つからない。着の身着のまま農村から脱出(逃亡)したので、四〇年も前の私の「檔案」は、たぶんその後、破棄されたのであろう。


 しかし、歴史を明かそうとする熱意さえあれば、その裏の方法はいくつもある。過去の写真をかき集めて証拠とするのは手段の一つだが、同時代の他人の証言を得ることも有効の方法であろう。最近、長らく日本に「隠居」していた私は、「偶然」で、四〇年も前の黒竜江省に下放された時の仲間達に「発見」されることになった。「朗報!姜克實を発見したぞ」という発信が、同期会が立ち上げたWEBサイトで駆け巡ったのだ。インターネットの普及で世界は狭くなり、いままでなら音信不通のはずの人々が交信するようになり、同期会のような組織も出来がった。とりわけ、私の下放先のグループは熱心だったようで、「建字106 汽車連の空間」という立派なサイトを立ち上げていた。そこで古い写真、名簿が公表され、情報が集まった。まもなく、私以外のほとんどすべての同期の居場所が突き止められ、盛大な記念会、故地再訪のイベントが行われるようになった。日本に来てから「同窓会」の絆の強さに驚かされたと記憶しているが、条件さえ整えば、中国人の熱心さは決してそれに劣らないと、改めて認識した。


 「建字106 汽車連」とは、一六歳当時下放直後の居場所で、「中国人民解放軍生産建設兵団」第一師団、第六団のトラック中隊の代番号だったのである。といっても、正体は軍隊ではなく、軍に憧れる我々のような純情な「知識青年」(毛沢東の言葉)を農村に誘い込むための罠であった。前身は国営農場、さらに遡ると建国後の「階級の敵、反革命分子」を収容して矯正労働を行う収容所だったのである。

  トラック中隊は、文字通り、トラック輸送を専門とする部門で、当時、この大農場に下放された二千もいる北京、上海、天津の「知識青年」にとって、苦労のすくない、誰もがあこがれた場所であった。運転手の卵は、各基層連隊から、「革命の試練」に合格し、選び抜かれて集まって来た所だった。


 しかし、この有り難さを知らない血の気の多い私は、なぜかここでも旧農場の上司に反抗的だったので、一年あまりであっさり農作業現場の僻地の連隊に追放されてしまった。正味一年三ヶ月しか、この「汽車連」にいなかったわけである。今歩んできた人生の道を振り返ってみると、この間はほんの一瞬のことに過ぎないが、動乱の時期における、社会への最初の一歩のためか、確かに印象は深かった。忘れていた名前も、当時の写真を見たとたん、四〇年ぶりに口からとび出す。いまの、学生の名前すらろくに覚えられない、老いぼれの私とは鮮やかな対象をなす。


 史料、情報を操り、まして諜報屋の血筋(親父は共産党のプロの諜報要員だった)を引いている私には、もちろん、この同期会の情報に気づかないわけはなかった。「発見」される一年も前、つまり彼らが同期会を立ち上げてまもなく、すでに私がその組織の動向をつかんでいた。ただ、名乗り、接触に至らず、声をかける勇気もなかった。傍観者の身分で、その活動を見守り、時には幽霊のようにひそかにグループの中に潜入し、一緒に昔を偲んでいた。付き合いが苦手な私の性格上の理由もあるが、時間的にも、大半定年になった彼らと、おしゃべりする余裕はなかった。


 否、沈黙した最大の理由は、やはり同世代の過去の評価に関して、彼らとは一つの壁の存在を感じたことにあろう。階層の差、教養の差より、政治意識の差というべきであろうか。


 今油に乗って幅を利かせている改革開放後の世代、いわゆる「六〇後」、「七〇後」(=一九六〇年-一九七〇年以後出生)の世代とは違い、私たちの世代は、文字通りの「無知」の世代で、文化大革命の犠牲品であった。正味小学校六年生の教養しかなく、ほとんど大学とは無縁の連中ばかりであった。


 苦難を舐め尽くし、その後ほとんどみんな下放先から都市に舞い戻ってはいたが、ろくな仕事は見つからず、五十代で定年を余儀なくされた人が多かった。私のような海外に出られた「出世」者は、ほんの一握りにすぎない。時代の認識には大きな隔たりを感じた。私は、学問をとして自分の運命を見つめ、毛沢東時代、社会主義を批判してきた。対して彼らは、いまの不遇の境遇にもかかわらず、互いに「戦友」と呼び合い、自分らは被害者ではなく、信仰(共産主義)への献身者、「人民共和国の背骨」と自負している。会ったとしても話はどこから始まるのであろうか。


 しかし、「発見」された以上、もはや応答しないわけはいかず、彼らと渋々通信し始めた。ただ、サークル中における自分の論点(論文)の公表とブログの参加を婉曲に謝絶した。彼らの寛容な時代評価と自慰的な自己認知に水を差したくなかったである。


 でも、本当をいえば、やはり会いたい。四〇年ぶりに昔の話をしたい。もちろん、今の政治立場ぬきの話である。機会があれば、一度下放先の農場も訪ねたい。私の「檔案」ははたして廃棄されたかを、この目で確かめたい。
生きている歴史を、すくなくとも本人が生きている間にその正しさを主張し通すつもりである。そのあとはどうでも良い。歴史とはもともと、このような性質のものであろう。嗚呼!(小小説2011.4)

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