「党性」と人間性の間で・親父のこと
共産党員の親父は、自ら革命者と自負して、一生、ある理想のために献身した。財産らしいものもないので、臨終の際、家族への遺言はなく、革命事業に対する自分の信念を表した、という。
多くの共産党員のインテリと同じように、親父の出身はプロレタリアではなかった。曾祖父は清朝末の挙人で、祖父もよい教育をうけ遼寧省営口地区三県の税務署長を勤め、家はかなり裕福だった。いっぽう、革命流の階級区分で言うと、「官僚地主」という、かなり不名誉な出身となる。この汚点を消そうと、革命に参加した後、親父は自ら家との「絶縁」を宣言し、その後死ぬまで、郷里に帰ったことは一度もなかった。家がまもなく没落したお陰で祖父は、解放後共産党の「鎮圧」(反革命分子鎮圧運動、1951)から命びろいをしたが、晩年の生活は悲惨そのものであった。死ぬ間際に、一目会いたいと、共産党幹部の親父に哀願したが、親父は断固として聞き入れなかった。生前、親父は自分の家庭について一切語ろうとしなかった。この話は、死後、叔父から教えられたものである。共産党員って、なかなか冷酷な人間だなあ、とその血の半分を引いた私は、情けなく思った。
平素から親父の革命のお説教に反感を持つ私は、日本に留学するようになると、親父との思想対決はもはや避けられないと、なかば諦観してその日の到来を待っていた。共産党の腐敗はすでに露となり、共産主義に対する懐疑と不信は私をして「デモクラシー」の課題を選ばせた。親父は息子の留学に誇りを感じるが、親子の間、立場からの蟠りは深まる一方であった。
もちろん、親父は共産党の腐敗に気づいていなかったわけではない。日常茶飯事のような不正の現象に、時には嘆き、憤慨し、時には感情を抑え切れず爆発さえした。最後の病院行きの車の中で、すでに意識がもうろうとした親父は、付き添いのおふくろや兄が、ひそかに運転手に何物かを渡しているのに気づいた。公用車の使用は組織から与えられた「特権」であるにもかかわらず、寝床から起こされたせいか、運転手は不機嫌そのもので、公然と賄賂を要求していた。危篤に陥った病人のはずなのに、突然「けしからん、何を渡しているんだ!」と、必死に親父は怒鳴りだした、という。命の最後の叫びであった。親父は、それっきり戻れなかった。親父の死を日本で知った私は、深い悲しみに陥ったが、なぜか、頑固な共産党員との正面対決がついに避けられたことに、ほっとした気持ちもあった。
親父は共産党の不正、腐敗に心痛するが、一方、当たり前のように自ら党から与えられた“正当”な特権を享受していた。特別医療、広い住宅、公用車の使用権など。またほんの僅かの回数だが、不正も働いた。裏口を使って私を黒龍江の農村から兵隊に転入させたり、追放から復権後、生活面の待遇に不満を唱えて、文革派(文革で出世した極左の連中)に改善を迫ったこともあった。
一九六九年、親父は黒竜江省へ下放となった一六歳の私を、駅まで見送った。毛沢東の指示に忠実し、子どもを農村で再教育を受けさせること両手をあげて賛成した親父は、発車の前なぜかいつものお説教の顔ではなく、手を震わせ、目に涙を浮かばせていたのに、私が気づいた。一度しか見たことのない涙である。この時の親父は、とても人間らしい姿であった。
親父には、実は革命者とほど遠いもう一つの隠れた顔がある。小さいときから裕福な家庭で香り高い文化の薫陶をうけたせいか、クラシック音楽に造詣が深かった。結核で高校中退の学歴しかないのに、日、英、露三か国語に堪能であり、ずっと、共産党の情報畑の中枢で働いた。しかし、外国語勉強の動機を聞いたら、音楽研究のため、という意外な答えであった。日本語は音楽文献を読むために独学したものであり、ロシア語の最初の成果も、チャイコフスキーに関する音楽書籍の翻訳であった。抗日戦争勝利後(日本の敗戦)、親父は共産党の接収隊員の一人として、植民地だった大連の接収に赴いたが、教育とマスコミの担当の便宜を利用し、日本人が引き上げた時に放出したレコードと音楽関係の書籍を大量にかき集めた。音楽理論を研究し、クラシック音楽の歴史の本をまとめることが、親父の夢だったようである。しかし、党の利益を第一にした親父は、結局、この夢を放棄するしかなく、数千枚もの貴重なクラシックレコードも、文化大革命の中、一枚残らず「紅衛兵」のハンマーの犠牲となった。
解放直後、共産党から清貧生活が奨励されていたにもかかわらず、食いしんぼうの親父は北京の料理屋地図に精通し、またアメリカ制のレコードプレーヤーや、ロレックスの腕時計とNikonのカメラもひそかに愛用していた。これら五〇年代の中国で非常に珍しい品は、解放後、質屋で手に入れたらしい。階級的本性、改め難し、ということであろうか。この点を見れば、親父はやはり生身の人間であるように思う。
今思えば、親父が社会主義陣営の最期を見届けず、天安門事件の銃声を聞かずに息を引き取ったことは、不幸中の幸いであった。曲がりなりにも一つの破滅寸前の理想を全うしてあの世へ旅立ったのである。運命のイタズラ、というべきであろうか。
「思想の自由を奪いとられているのに、自分では最も自由だと思っていた人間でした。精神の首かせを美しい首飾りだと思って見せびらかしていた人間でした……」小説家戴厚英氏のこの節を思い出しては、私はますます悲しくなってくる。親父はまさにそのような信仰人間であった。
親父の骨は、いま北京郊外の八宝山にある「革命烈士」の霊園に置かれている。等級差別の厳しい「革命大家庭」のなかで、位の低い親父は否応なく陰気で暗い納骨堂の隅に押しやられている。数年前までこの霊園に入ること自体「光栄」の象徴だったが、革命の匂いが薄らいだいま、遺骨遷移の申し入れが、次第に増えてきた、という。「革命烈士」なんか、もうたくさん。一日も早くあの陰気な部屋から、押しつぶされそうになった親父を救出したいのが、私の気持ちである。
遼寧省鞍山市外の名勝地千山の上に、家代代の立派な墓地があり、文革の破壊から奇跡的に逃れている。親父をこの墓地に入れたら、と叔父から相談されたが、家と「絶縁」してとびだった革命家の親父は果たして喜ぶのであろうか?と、古希に近づくおふくろは、いまも悩みの毎日を送っている。
親父が死んでから、まもなく十年が経とうとしている。印象が薄れて行くはずの親父が、不思議に、夢に登場する場面がますます頻繁になってくる。まるで不孝者の私の良心を責めたてるかのように。こうした親父の呪いから解放されるためにも、今年こそ、二回目の墓参を果たそうと決心している。八月四日の命日に…。 (1995年度日本史研究室プロフィル所収)