top of page

私の文革体験記

中直機関の文化大革命

今度は軍の話をしよう。もちろん日本軍ではなく、私が経験した、毛沢東時代の中国人民解放軍の話である。いまから36年前のある薄暗い寒い冬の朝、私は支給されたカーキ色の軍服を着て、大勢の田舎ものの新兵とともに、山東省鄒県から益都県への軍用貨物列車に乗り込んだ。その時代、軍の移動は「極秘情報」とされ、密閉された貨物室には暖房がなく、明かりもない。すし詰め状態のきつい旅だったが、暗闇のなか、みんな夢をふくらませ、顔が輝いていた。これから、憧れてきた革命軍隊に入り、「毛主席の戦士」になる。新しい人生、新しい生活が始まろうとする、まさに希望に満ちた旅であった。

この時、私の正式の戸籍と档(本人が記載内容を知らない秘密の身の上調書、各部門の党組織が記入・管理し、本人ともに移動される)は、2000キロも離れた、遠い黒竜江省の辺境地にあり、この入営は、戸籍、档案を変造した不正の裏口(走後門)入営だった。徴兵された鄒県は、当時私の父と母が下放された「中共中央東風五七幹部学校」の所在地で、病気療養のため、私は半年ほど過ごした場所である。

父と母は文化大革命中の1969年まで、北京郊外にある中共中央直属の情報機関「調査部」に勤めていた。「中直西苑機関」の看板を掲げているこの組織は、建国後ソ連の支援で作られもので、名勝地の頤和園のそばにあり、詩的な田園風景に囲まれた、ロシア式のキャンパスであった。なかには、飛行機楼、馬蹄楼、紅楼と呼ばれる事務棟エリアと、西北院、東北院、北二院、南二院といった宿舎エリアがあり、露天劇場、紅楼礼堂といった大型集会場もあった。噴水や、シダレイト杉に囲まれた芝生や、桃を栽培する果樹園、築山がある植物園があり、子供たちの格好のいい遊び場であった。警備厳重の文革後と違い、私が小さい頃は、最心臓部飛行機楼まで、遊びのため自由に出入りすることが許された。

中央調査部はソ連のKGBに相当する機関とよく言われるが、実際KGBと違って、対内監視、弾圧の機能を持たず、こぢんまりとした、単純な対外情報を専門とする機関であった。第一線で活動する「工作員」もいたようだが、私が知る限り、KGB、北朝鮮がやっていた武装ラチのような荒行ではなく、主として外交官の身分で各国駐在の大使館を中心に活動し、情報の収集に従事したようだ。

父と母は、外交の仕事でなく、情報の収集、処理する業務に従事していた。父は長く本部の機要処、秘書処の副処長をつとめ、情報分析のベテランだと聞いている。大学出の母は、外国語が堪能のため、本部から十キロほど離れた紫竹院にある第四局(今日の北京国際問題研究所)で公開の情報収集をやっていた。外交ルート、工作ルート、公開収集ルートで集められ、整理された情報は、その後、父がいる部弁公室を通じて、部長らに報告、認可された後、直接毛沢東の党中央の指導部に提供される仕組みだ、という。

中央調査部は文化大革命中の1968年、いったん解放軍総参謀部第二部(情報部)によって吸収併合された後、文革後、国内監視の政府公安部の部分機能を加えられ、今日の国家安全部に変貌している。

この情報を扱う中央直属の組織は、インテリ幹部の集まりであり、長年外国で工作・生活する外交官、要員も多いので、1966年文化大革命が始まると、問題の多い「重点改造対象」と目され、国外にいる外交官、要員らはつぎつぎと召還され、経歴問題の洗い直し、「スパイ」容疑の審査、ブルジョア生活様式の反省、思想改造などの洗礼を受けた。文化大革命は下部からの「造反」であり、もとの命令系統は「奪権」され機能出来ないのが特徴であった。高校、大学で活躍した造反派の「紅衛兵」を習って、各部局の若い幹部を中心に「造反派」が組織され、「労働者は指導階級である」という毛の「最高指示」に従い、機関内の水道・電気の世話をするサービス従業員(労働者)と組んで批判闘争会、権力者の摘発・追放、派閥抗争を繰り返した。キャンパス内、「大字報」(相手を攻撃、摘発する壁新聞)が氾濫し、課、処長級以上の幹部のほとんどは、隔離審査、批判闘争、監禁、つるし上げなどのリンチを受けた。

えん罪、侮辱、暴力横行の中、自殺による死者が続出し、宿舎に住む我々のような十二、三歳の子供の遊び仲間の中でも、毎日のように A君のお父さんはソ連のスパイだった!B君の母は国民党の女特務!一号室のYさんの父は、歴史反革命、解放前、国民党の砲兵団長だった!一階段七号室のお父さんは昨日三階から飛び降りた!といったような恐ろしいニュースが駆け抜け、人々を恐怖と絶望のどん底においやった。いったん親が「罪」の宣告を受けると、血統と出身を絶対視する中国では、自分の人生もおしまいということが、みんな分かっているからである。私の家がある北一院三号棟にすむ幼馴染みの于さん兄弟は、父母そろって「歴史反革命」と定罪され造反派に連行された上、自分たちも不謹慎の落書で「小反革命分子」に仕立てられ、かつての友達から暴行を受け、毎日のように通り道で罵声、つばをかけられるという、心痛の出来事もあった。

 

「軍代表」の進駐

もちろん、文革を推進した中央の指導部にしても、直属の秘密機関においてこのような混乱状態の継続がおもしろくなく、まもなく、秩序維持のため解放軍の軍人が派遣された。文革二年目の1967年以降、こうした解放軍(または労働者)による各混乱地域、機関への派遣は多く見られ、まもなく、派遣の軍人、労働者組織と、造反派を中心にした、いわゆる「三結合の革命委員会」(新政権)が各地で誕生するようになった。

この時代の解放軍は、毛の絶対的信頼を受け、指導階級とされる労働者階級よりも高い位置に付けられ、無条件に尊敬されていた。文化大革命の動力となる紅衛兵は軍の組織で編制し、軍服を着用していることから分かるように、軍のすべて――軍服、軍用ベルト、軍帽――はあこがれの対象であった。毛沢東、共産党への忠誠を示すため、みんなは軍の真似をしてカーキ色の制服を作り、町中は革命の独裁を象徴する赤と、軍を象徴するカーキ色に染まる、異様な風景であった。

調査部に進駐したのは、普通の兵隊さんではなく、この中央の大組織に釣り合うように選ばれた、解放軍第67軍の軍長を頭とする高級将校の数十人であった。この軍人の一団は「軍代表」と呼ばれ、機関内部の造反派の統合、秩序の維持、幹部の思想教育、生活管理などあらゆる面で指導力を発揮した。彼らは機関全体レベルの大集会を組織して演説し、各種の学習会を立ち上げ、革命の伝統教育を行った。また、学校もない混乱の中、悪童化しつつあるわれわれのような幹部子弟を集め、軍隊式の寮生活の合宿を通じて赤軍の伝統教育を試みた。あまり教養のない、たたき上げの農民出身の将校ばかりで、その粗魯の振る舞い、都市生活、文化への無知、濃い湖南省のなまり、漢字の誤読などは、すぐわれわれの物まね、からかいの対象になったが、かくかくたる戦功をもつ古参軍人の経歴がある故、心から彼らを軽蔑することは決してなかった。この軍人グループの進駐で、機関内部の混乱が次第に鎮められ、表面上の平穏を取り戻しつつあった。

一方、水面下では、将来を巡って調査部は別系統の軍組織との間で、熾烈な権力闘争が繰り広げられていた。解放軍参謀総本部第二部(情報部)との確執である。総参謀部は解放軍の天下という文革期の有利の情勢を利用し、一気に調査部を飲み込もう(併合)と、画策したのである。もちろん、軍側が勝利し、調査部のすべては、格下の総参謀部第二部によって吸収合併されることになった。まもなく、新主人となった軍人のグループが西苑機関に乗り入れ、情報業務、敷地、キャンパス内のすべてを接収した。調査部人員の一部が留用されたが、残りの大部分は、機関を管理した67軍の軍代表とともに、山東省に新設した「57幹部学校」に追い出される運命になった。中央機関の解体である。「中直西苑機関」の看板はその後、解放軍総参謀部の看板に取り替えられ、下放組の家族も住みなれた宿舎から追い出された。新主人となった総参謀部の軍人と幸運の残留組は、ほしいままに明け渡された高級幹部の住居を占拠したりして、キャンパス界隈で威張っていた。追放となった調査部の幹部達はこのような軍による中央機関の併呑を「小魚喫大魚」と呼んで憤慨した。この文化大革命中の出来事は、のち、旧調査部系統の幹部と総参謀部系統の軍人の間、また残留組(軍服組)と下放組の間に、深い傷を残すことになった。

調査部の解体とともに、私の家庭も解体した。父母はそろって「57幹部学校」行きの身となり、住み慣れた2DKの官舎も取り上げられた。15歳となった私はちょうどその年、中学卒業と同時に「知識青年」として黒竜江省に下放され、家を離れた。双子のおさない妹は行く場所はなく、懇意だった隣人に預けられ、腎臓の疾患を持つ兄は下放の運命から逃れたが、工場の寮に入り、単身生活を余儀なくされた。こうして一家六人が離散し、その後顔をそろえて団欒できる機会には、一度も恵まれなかった。

 

鄒県東風57幹部学校

文革中「知識青年」の辺疆への下放と同じように、各種の機関、部門からも大量の失脚幹部を排出し、農村に下放された。ただその行きは先辺疆地ではなく、「57幹部学校」と称した、内地の相対的に条件のよい農場であった。「57」の意味は、毛沢東の1966年5月7日、国防部長の林彪に当てた手紙――のち「57指示」と呼ばれる毛の意見書――に因んで誕生した文革の政治用語で、この中において毛は軍の農、工業生産実践への参加、社会主義教育運動の参加、ブルジョア的思想批判の重要を訴えていた。この「最高指示」はまもなく、文革開始の導火線――権力者の追放――になったと同時に、失脚幹部の労働改造、思想改造の場所の代名詞にもなった。

話を戻そう。混乱に乗じて水面下の陰謀で実利益をあげた解放軍総参謀部の軍人たちとは対照的に、秩序維持のため進駐した67軍の軍代表達は得ること一つもなく、逆に解体機関の後始末という面倒の役に回され、千人も超える追放者を率いて、北京から撤収することになった。「解放軍は一切を指導する」という綺麗事とは裏腹に、毛にとって、こうした軍の臨時管理組織も、文革中一時的秩序維持のための、便宜の道具にすぎなかったのであろう。軍代表たちはこうして自ら地元の山東省で、追放幹部達の下放先を斡旋する羽目になっただけではなく、引き続き下放者の労働、生活の管理者として、「思想改造」の監督者として、57幹部学校が解散した1975年頃まで、調査部の下放組と長くつきあう運命になった。

陳軍長をはじめとするこれらの純朴の農民軍人も、預かった千人を超えるインテリ集団の運命に多大な責任を感じ、悲劇を最小限に食い止めるため、最善を尽くして57幹部学校の設営、運営に当たった。彼らは管轄下の山東省で一番条件のいい国営試験農場を選んで「57幹部学校」に改造し、また軍のネットワークと特権を使い、学校の生活物資の確保、医療条件の提供など、多くの利便を提供した。また、長いつきあいのうちに次第に悲運に見舞われた追放幹部とその離散家族の不幸にも同情を寄せ始め、後で述べるように、救済措置として私を含む十数人の追放幹部の子弟を不正の手段で軍に送り込んだ大胆な冒険行動も、陳軍長の指示と画策によって行われたのである。

山東省鄒県に誕生した調査部の57幹部学校は、用水路と高い土堤に囲まれた、周りの貧しい村から隔離された別天地であった。臨時宿舎となる瓦、青煉瓦づくりの長屋は、いく列も並び、幹部達は家族単位で入居し、大食堂で食事をとり、またもとの農場職工たちの指導をうけ野良作業に従事した。もとの部局を基本単位に軍隊式「連」も編成され、労働改造と同時に、政治学習や思想改造も日課として行われた。

私が経験した、「棄民」同然の黒竜江省の下放地と打って変わって、ここは「下放地」とはいえ、高級幹部を多く抱える中央の一機関の受け皿として、上からの特別な目配りを受けていた。軍代表の尽力もあって、ここでの生活と健康が一応保障されていた。下放された幹部達も、「重大問題」や特別な「要監視者」の科がない限り、給料の全額が支給され、鄒県の県長クラスの役人より高給取りの幹部も多くいた。野良での農作業も思想改造の一環で必須だったが、監視を受けた強制労働ではなく、自己申告の健康状態に配慮しての軽重役の分担があった。管理者も、少人数軍幹部のほか、大多数は選ばれた、政治的に信頼できる下放幹部であった。父も、なぜか認められ、ここで一連の副連長をつとめていた。

文字通りの「思想改造」は1969年の後半から正味一年あまりしか続けておらず、まもなく、毛の後継者と目された軍のトップ林彪(副主席)による毛沢東暗殺計画、そしてソ連逃亡の事件(9.13事件)が発生し、緊張した革命の雰囲気は一気に雲消霧散となった。人々は毛沢東が推進した「闘私批修」の文化大革命の目的に懐疑の目を向け始め、馬鹿げた「知識人が農民から再教育を受ける」という思想改造にも拒否反応を示すようになった。この頃から、全国のどこでも同じように、革命の雰囲気が急速に衰え、特権、裏口(走後門)を利用する不正の現象が横行し始め、社会の秩序が乱れ始めた。鄒県57幹部学校では、これまでの秩序、規律はもはや維持できず、みんな病気の治療、家庭事情などを口実に長期の休暇をもらい、北京に舞い戻った。こうした幹部の大量返城の現象に対応するため、調査部の後身となった総参謀部第二部も、やむを得ずとなりの国際関係学院(調査部直属の語学訓練学校)の学生寮を開放して「難民」たちに臨時住居を提供した。我が家もそこで二間を借用し、七、八年間もながく使用し続けた。

北京に戻った幹部の多くは、個人のコネ、人脈を駆使して権力の中枢に留まっている昔の戦友、上官、部下を訪ね周り、北京への復権を働きかけた。鄒県の57幹部学校には、有能なインテリや情報部員、外交官を多く収容した人材の宝庫でもあったので、政府の機能が徐々に回復した1970年頃から、外交部、対外貿易部など国家の渉外機関がつぎつぎとスカウトにやってきて、有用な人材をかき集めて異動させていった。のち日中国交回復に活躍した多くの「友好人士」とよばれる知日派も、ここの57幹部学校から「再出発」したのである。

57幹部学校に残ったものも、野良作業や思想改造をほどほどに、自らの生活環境の「改造」に精を出した。定期市(集市)で豚肉、地鶏、鶏卵など栄養品を買いあさり、缶詰の缶を原料に、燈油を燃料にした精巧なストーブも発明された。この発明により、大食堂の代わりに各家庭での「小鍋飯」が流行した。また、暇を見つけては幹部達が近所の嶧山、泰山、曲阜(孔子廟所在)などの名所に出かけて、史跡巡りなどに興じていた。冬の農閑期の畑に、古参幹部たちがあつまり、八路軍の「延安精神」の伝統と称して、手作りの「運動会」を開き、相撲を取ったり、競走、走り幅跳びなどをしたりして退屈の農村生活を彩った。

父は幹部学校の副連長をしているので、責任上、年中の殆どを鄒県で暮らしているが、母は農繁期以外、大部分は北京の国際関係学院の臨時住所に住み、妹たちの面倒をみながら、新たな就職先を探していた。57幹部学校はその後形骸化したまま、五年以上も維持され、文革が終焉に近づく1975年、やっと解散となった。残った人員もほとんど総参謀二部に引き取られた。父と母もこの解散を期にかつて勤めた調査部の天津分部(対日専門の秘密情報機関)に異動されたのである。天津部が置かれた和平区成都道は旧イギリス租界地の一角にあり、私が生まれ、五歳まで暮らした場所であった。静かできれいな町並みで、幼児期の美しい印象が幾つか残っている。しかし、この時の天津部にも、解放軍総参謀部の軍人が横行した。下放組の父と母はここで冷遇され、身分に相当する住宅が分配されず、構外の空き地にある取り壊し予定の長屋の一間に入居し、となりの機関専属運転手の趙さん一家四人と軒を連ねて暮らしていた。この13平米の狭い空間に1976年、私も復員して加わり、まもなく、23歳の誕生日を迎える前の日に、ここで人類の地震史上最大の災難を出した「唐山大地震」(1976.7)に出くわしたのである。この地震による死者は30万に達し、100万人都市の唐山は瓦礫の山に化し、完全に消滅した。百キロを離れた天津市も地震の余波を受け、二万人の犠牲者を出したのである。

総参謀第二部に対する相当な恨みがあったろう、母はまもなく北京大学に移り、父も一年後国際関係学院に転職し、二部と決別した。57幹部学校で暮らした五年の間、父は衛生条件の悪い地方病院での治療中、注射針から致命のB型肝炎を感染し、闘病のすえ1985年肝硬変のため65歳で世を去った。文革が始まったとき、父は働きざかりの46歳。その後、ろくな仕事を手に付けたことはなく一生を終えた。文革が作った人生の空白は想像以上大きかったのである。

 

赤貧の農村現状

鄒県は孟子、孫子など古代の偉人を輩出した由緒のある場所で、山東省の南西部に位置する。北に孔子の故郷曲阜県と隣接し、北西に歴史の古城兗州があり、西には隋の時代に開鑿された南北縦断の京杭大運河が走っていた。県内の名山の嶧山の頂上、書道史でも有名な始皇帝時代の嶧山刻石(篆文)があり、畑から秦、漢時代の彫刻模様の石材の破片がころころ出てくる。この東方の聖賢を育んだ文明の大地は、今日で言うと、すぐ世界の文化遺産に認定されてもおかしくないぐらいだ(今曲阜の孔子廟が認定を受けている)が、毛沢東の時代、山東省、又中国全体の中でも、もっとも貧しい地域の一つであった。人口の密度が高く、耕地面積は人平均一畆(660平米)以下であることはとなりの地区とさほど変わらないが、自然環境の完全破壊と集団化生産に対する農民のサボ、「人民公社」のずさんな管理下での生産性の低下が、貧しさの原因であった。つい最近北京で、同じ地区出身の若い家政婦と田舎の話をする機会があったが、彼女は私の記憶にある昔の生活はまるで知らない。小麦粉などの食糧をたべて育った、という。

下放時代の父は職業柄であう、地元の歴史、文化、庶民の生活などあらゆる情報にも関心が高く、暇の時よく外出して史跡を見学したり、村落を回って庶民の生活状況を調査したりした。私がここで病気療養した半年弱の間も、好奇心に満ちた父に連れられ、いろんなところに出かけた。週に一回の定期市も、毎回のように片道四キロ道の田舎道を歩いて往復した。

私が最初に鄒県に入ったのは1971年末の冬であり、東北農村に比べ、悠久の歴史がある分だけ、村・墓地が連なり、山が禿げ、可耕地の面積が少なかったと感じた。村には樹木らしい樹木はほとんどなく、昔立派だったであろう廟宇も、文革中破壊され、無惨な姿で寒風の中にさらされていた。単調な空色、炊煙も立ち上らぬ、死んだような寒村と不毛の大地はいっそう荒涼感をかき立てる。遠くの畑で、農家の娘は玉蜀黍の根っこを掘り出して集め、土を振り落として背中の大きなカゴに入れていた。炊事の燃料に使う、という。緯度が東京に相当するこの地域は、厳冬の中で、暖をとる燃料がほとんどなく、日差しがある日中農家の人はみんな窓、ドアを開け放して暖かい明かりを取り込んでいた。庭さきに、ぼろの綿入れを裸で着込んだ子供たちは、寄り添ってひなたぼっこをして寒さを凌いでいた。

このあたりの家はほとんど、粗末な三間構成で、土台は石組で壁は日干し煉瓦、屋根は芦葺きで、屋根全体をささえる横梁のほか、貴重な木材はほとんど使わなかった。使わないというより、「大躍進」や、「文革」災難をへて「公有財産」の樹木が絶滅し、自給出来なかったであろう。このような粗末な家でも一軒を建つと1000以上元も掛かる、という。現金収入が殆どない当時、家を建てることはきわめて困難で、どの村も家を建てられなくて結婚できない農家の男を大量に抱えていた。

当時の農村生活の豊かさを計る指標は、「口糧」といった、年間平均の一人当たりに分配される食糧の数字で現す。400斤(200キロ)は自活のライン、600斤以上は余裕、300斤以下は、貧困とされた。幹部学校の周辺の村はほとんど、「口糧」が200斤前後の極貧の村だったのである。口糧の多寡に直接影響したのは、土地の畆当たりの食糧生産高であり、このあたりでは、畑の収穫高は平均して200斤前後しかなかった。人平均の土地は一畆前後であり、200斤の「口糧」しか分配されないのは当然であろう。ちなみに私が下放された東北農村の場合、小麦の畆あたりの生産高は300斤前後であり、北京の郊外の田んぼの場合、800斤前後の収穫高が普通であった。

当時、戸籍のある都市人口には年齢、職種によって月額27斤から42斤の食糧が配給され、年に換算すると300-450斤の「口糧」に相当する。都市ではこの配給量が、野菜、肉、豆腐など副食を多くとれる富裕の家庭にとって十分足りるが、副食貧弱の労働者の家庭にして、ぎりぎりであった。そのため食糧の配給切符に闇価値がつき、取引されていた。

地元の「口糧」200斤は一日あたりの消費量に換算すると、273グラムで1.8合しかなく、戦時中、玄米二合が配給される飢えの日本に比べるとさらに酷い状況であることがわかる。もちろん、野菜以外のタンパク源がほとんどなく、しかも重労働に従事する農民にして、この数の食糧は足りるはずはない。さらに信じられないことは、この極貧地帯の「口糧」というものは、本当の米、麦、雑穀のような食糧ではなくほとんど「地瓜干」とよばれる干しサツマイモである。「細糧」の小麦はいうまでもなく、日本で雑穀に分類されるトウモロコシも粟などの「粗糧」も、主として「公糧」として国家に徴収される。残った雑穀は、嵩を増やすため、こうしたやすい「地瓜干」と交換する。鄒県と近隣の兗州、済寧、曲阜一帯はほとんど「地瓜干」200-300斤の極貧地域だった。サツマイモのスライスを生のまま日干して出来た固い「地瓜干」は、上質のものなら白っぽいが、黴びると灰色や黒色に変わる。地元で見かけたのは、ほとんど黒っぽい「地瓜干」である。この貴重な「食糧」もそのまま食べてはもったいないので、臼で引いて粉にして「煎餅」に加工するのが一般的食べ方である。地元の農家では、分量を増やすためこの煎餅にする加工の過程にさらに大量のサツマイモの茎、樹木の葉っぱなどを混入して臼にかけ、その後、この粉っぽい代物を水でのり状に調合し、大きな円盤状の鍋に流して、厚さ一ミリ前後の大きな煎餅ができあがる。添加物が多いほど色が黒くなり、煎餅ももろくて纏まらない。最後にはこうした大きな煎餅を畳んで四角い、堅い保存食に仕上げ、炊事の燃料を節約し何週間も火をおこさず食べ続けるのである。普段、煎餅を熱いスープに入れてやわかくして食べるが、外出の時風呂敷に包んで持ち歩き、行き着いた先の場所でお湯か、スープをもらって食べるのである。

貧しい鄒県周辺でみた煎餅は、市場に灰色の純度の高いものが見かけられるが、農家が口にするのは、ほとんど混ぜものの多い黒っぽいのものである。解放軍に入ってから、部隊駐在の益都県あたりでは初めて「地瓜干」以外のトウモロコシ、粟を原料とする黄色の煎餅を見た。ここは山東省で一番豊かといわれる「膠東」(山東半島)地区に隣接し、口糧も平均400斤ほどと高く、その分煎餅の原料も、色も変わるだろう。黒っぽい「地瓜干」の煎餅で育った鄒県出身の兵士は、この黄色の煎餅を「黄金」煎餅と呼び、地域の豊かさを羨ましがっていた。

調査で分かったが、大体の家庭では、200斤の「地瓜干」は半年も持たずそこがつき、後の生活は自活でしなければならなかった、という。共産党は「商品糧」をたべる都市民の最低生活ラインを保障するが、戸籍のない農民に関して「公糧」(税)の減免があるが、生活の保障はしなかった。活きるため、農閑期の冬、農民たちは、「耕地の基本整備」という人民公社の指揮命令に従わず、ほとんどは、リヤカーで石材運びなどの日雇いに出かけ、僅かの駄賃を稼いでいた。このあたりのリヤカーは、ロバを使って引くのは普通であるが、ロバをもたない貧しい農民は、人力で数百キロもある重い石を引いて数十キロ悪路を往復したのである。また、畑に仕事がない冬、農家は口を減らすため、男の子を町に乞食に出させ、女の子に年越しの綺麗な服を着せ、余裕のある親戚の家や、許嫁の家に避難させたのである。旧正月を迎える前、例外に「毛主席の心遣い」と称し、お上から人頭に一斤の小麦粉が配分され、それで年越しの餃子を作るのである。この一年一度のご馳走にも、肉がほとんどなく、具には豆腐が入ればラッキーだと聞いている。こうして、貧しい農民たちはやっと一歳を長らえ、「毛主席万歳」、「共産党万歳」、「人民公社就是好」(人民公社は素晴らしい)の赤い対連を掲げ、暗い新の一年を迎えたのである。

この歴史悠久の地域で見聞した、文字通りの「一貧如洗」の農村現状は私に大きなショックを与えた。自分が下放された東北農村では、自然条件と衛生条件が厳しいが、肥沃な土地や、広大な森など自然の恵みがあり、貧困といわれる地域も、玉蜀黍、高粱なら不自由のないほど食べられた。新聞には連日のように「大寨精神」(毛が立てた自力更生による農村変貌を遂げたモデル村)の高揚、農村生活の大変貌のニュースが伝えられ、東北にいた頃、鄒県の親からいつも大きな落花生、ナツメなどの栄養品をいっぱい詰めた小包が届けられた。鄒県は豊かな天国のような農村だと思っていたが、結局、豊かな生活をしていたのは、地元の農民ではなく、都市からやってきた金持ちの幹部達だけだったのである。幹部達はこうした貧しい農民に「精神的」に同情してはいるが、実際、衛生上の理由で、また乞食だけではなく、時に盗みなどを働く汚らしい農家の子供たちを敵のように警戒する人も多かった。

貧しい農村とは対照的、週に一回開く定期市(自由集市)には農産品があふれかえっていた。新鮮な豚肉、生きている鶏を始め、白菜、長ネギがあり、卵、ナツメ、ショウガ、落花生、小麦粉、雑穀類、醤油、豆腐、食用油などが売られていた。また近くの微山湖から運ばれた、半ば腐った鯉も時々見られた。ほかに、鍛冶屋、靴修理、裁縫屋、生地屋、飴や、煎餅屋も露店を連ねて、市を賑わせていた。今日の自由市場に比べものにならないが、当時の貧しい中国では、北京の公設市よりずっと豊かなイメージであった。

もちろん、この生気のある市は、人民公社管轄外の伝統的「自由市場」であり、金さえあれば、制限なくものが手に入った。貧しいこの地域では、農民の現金収入はほとんどゼロに近く、醤油、食用油、塩、土布、金物など生活必需品を手に入れるため、みんなわずかな「自留地」(個人菜園)で収穫した落花生、野菜、命綱の家畜、鶏、卵などを持ってきて換金し、塩、醤油など生活必需品を手にいれていた。売り手はほとんど算数もろくに出来ない農民であり、客に声をかけられず、数個の卵を入れたカゴを守って一日中寒風の中に立ちつくす、農家の娘もいた。

貧乏の地域の市には売り手が多く、また、病気など、一時の急用をまかなうための売り急ぎが多いので、値段はどんどんやすくなる。北京で配給のリストにほとんど載らない高価な栄養品とされる落花生は、ここでは斤あたり60銭で大量に手に入る。地鶏も家庭で卵を産ませるため三、四年以上を育つ「老母鶏」がおおく、その味も格別であった。よほど困らないと、絶対手放せたくない、農家の宝物であろう。買い手は、病気など家の事情、冠婚葬祭でどうしても必要な人たちであるが、幹部学校が入ってから、現金に不自由のないインテリたちも市場の重要な買い手になって、大いに歓迎された。幹部達はここで、大量の鶏、卵、落花生を調達し、自分たちが使うだけではなく、北京に持ち帰ったり、貧困地域の親戚や、農村に下放する子女に送ったりした。

 

裏口入営の経緯

鄒県にある下放幹部たちの関心事は、また自分たちの復権(帰京)だけではなく、同じ時期農村に追放された子供たち運命にもあった。このとき、ごく一部の特権中の特権階層を除いて、どの家庭にも、遠く内蒙古、黒竜江、新彊などの辺境地に下放した子供に関する悩みを抱えていた。桃源郷のような鄒県の幹部学校と違って、子供達が面したのは、危険で寒い、また衛生条件の悪いサバイバルの環境である。辺疆の弊村に長くいると、病気、事故などで子供が命を落とすかもしれない。あるいは、住み着いて永遠に戻れない辺疆の農民になってしまうかもしれない。一刻もはやく子供達を下放地から救い出すのは、57幹部学校の親たちだけではなく、この時、百万を超える「下放知識青年」のすべての親たちの、至上の責務でもあった。親たちは藁にでも縋る心境で知恵をしぼり、あらゆるコネ、手段を講じて子供達を大都市、あるいは身辺に呼び戻そうとした。正面からの道は、毛の政策に阻まれ通れないので、裏口(走後門)手段は、この文革が作った特殊の事情を背景に、爆発的に流行し始めた。

子供を農村から脱出させるコネのうちで、一番あこがれたのは軍のコネである。知識が軽蔑され、大学、専門学校の一般募集がないこの時期、解放軍の軍人になることは、目下の健康、生活の保障を意味するだけではなく、将来の出世道も、ある程度約束されていた。私がいた黒竜江の農場でも、1970年ころから、まずパイプの太い特権層や、高級幹部の子弟達は次々と軍服を着て農村を離れいった。「Y君に昨日瀋陽軍区から「調令」(異動命令)がきたぞ、総後勤部にいる叔父のコネだ…」といったように、絶望の中、みんな嫉妬、羨望の複雑な気持ちで、離れていく幸運児達を見送っていた。

先頭をきった裏口(走後門)入営に続いて、1972年以降、数百万下放青年の親の不満を和らげようとしたのか、新政策が公布され、選抜入学(大学、専門学校)、「招工」(地方都市の労働者募集)、「病退」(病気を口実にした帰城)、「頂替」(早期退職の親の仕事を受け継ぐ)など合法の道も開かれたが、許可される数、配分された定員数が少ないのでやはりコネが必要であった。コネの利く人はまず「選抜入学」の道を選び、コネのない人は、「病退」、「頂替」を試みた。すこしでも相手との競争に有利になるように、水面下で異動権限のある農村の役人に対する贈り物、賄賂の攻勢が熾烈なものであった。文革はすでに終焉に向かい、毛沢東への「忠」や、「大公無私」の革命精神は消え失せ、代わりにコネや特権が世の中を支配した。社会の秩序が乱れはじめ、戸籍を管理する公安局、档案を管理する人事局、知識青年を管理する農場の連幹部連中は、みんな自分の「職権」を特権、コネとして悪用して、帰城に急ぐ知識青年やその親から公然なる賄賂を搾り取った。自分の順位を上げようと、若い女性の知識青年は体で管理者、上司の役人と取引することもよく聞いた。この帰城のブームはその後、十年あまり続き、文革終了後、八割以上の下放青年は何らかの方法で、農村を離れていったのである。

 話を戻そう。鄒県の57幹部学校にいた下放者たちは殆ど軍との縁が薄く、また権勢、コネに遠い知識人が中心なので、自力で農村にいる子供を救いだすことは困難であった。絶望の暗い雰囲気の中、親に中の一人が、「この幹部学校にも、「軍代表」がいるのではないか」と叫び、彼の呼びかけで、たちまち運命が同じ親達のグループができあがった。母にそそのかされ、もともと「走後門」の不正を痛烈に批判した正直者の父も、子供のためなら今回限りと、このグループに加わった。「軍代表」への集団直訴、個別工作など、みんな心を一つにして思想改造の管理者であるはずの「軍代表」への働きかけを試みた。

軍代表による代行管理は三年余りが過ぎ、この時、監視者側の農民軍人と、要改造のインテリの心はすでに不思議な「人情」によって結ばれはじめたのである。直訴を受けた陳軍長は、こうした新「部下」たちの嘆願を素直に受け入れ、全部自分の部隊に入れてやると約束し、まず直訴の親たちを安堵させた。

しかし、大きな困難が立ちはだかった。受け入れる側の問題ではなく、出す側にあった。十数人の子供は、それぞれ違う場所の辺疆地にあり、こうした分散された戸籍、档案を短期間に、現地から出してもらうことは至難の業であった。いくら地元山東省の権力者とはいえ、陳軍長の力は下放先の県に及ぶわけにはいかない。先方の「割愛」許可がなければ、そもそも受け入れの話も始まらない。まことにやっかいな問題である。幾日考え込んだすえ、陳軍長はある大胆な決断を下した。裏口(走後門)入営予定の幹部子弟達についた元の档案、戸籍記録などを全部抹消し、偽ものの人事資料をつくり、あたかも幹部学校にいる家族のように鄒県から軍に送ることである。こうした権限による不正の操作は、もし今日に行われたら、命取りの「犯行」になるが、当時はみんな権限が及ぶ限り、平気にやってのけたものである。

こうして、私が下放した三年半の記録は、この裏口(走後門)入営の操作によって、一生消えることになった。今もし、出国時教育部が預かった私に関する档案記録をまだ廃棄していないとすれば(国費留学生の档案は地方ではなく教育部が統一に管理していると聞く)、その中にもちろん、黒竜江省への下放に関する記録は見つからない。農村下放の三年半は私にとっては事実であるが、今誰にも認めてもらえない、まさしく心に封印された「自分史」なのである。

入営するためもう一つの大きな障碍は、厳格な健康診断であった。先述したように、解放軍は名義上徴兵制であるが、飯が保障されるため、特に貧しい地方では志願者の壮丁源が多く、実際上厳格な選抜制であった。出身、階級身分、政治姿勢はもちろん、体格検査も厳しいものがあった。そのなかでも、「近視」は致命な弱点になる。その時の私は今ほどではないが、すでに視力が減退しはじめ、裸眼で0.6しか見えなかった。それだけではない、ほかにも健康上の不安の要素もいくつか重なっていた。

 黒竜江の下放地の風土に適応できず、毎年赤痢、アレルギーを繰り返し、痩せこけていた。1971年の夏、伝染病のA型肝炎に感染し、三ヶ月ほど入院した。その後、半年北京の仮寓、山東省の幹部学校で療養して回復したが、黒竜江にもどると、再び肝臓の状態が悪くなり、またひどい喘息にも苦しんでいた。

入営予定前一ヶ月の1972年11月、我々下放幹部の子弟十数名は、夜逃げのように各地の農村から密かに呼びもどされ、鄒県の県招待所に入って入営の準備をしていた。そのときの私は、肝臓の腫れが収まらず、普通に歩くだけで右上腹部に痛みを感じた。風邪をこじらせ持病のぜんそくも悪化し、夜中に体を起こさないと息ができない状態が続いた。このままでは厳しい軍の訓練生活に適応できないのではないかと、父母がひどく心配したが、もはや「進退惟谷」、ほかの選択肢はなかった。「もし死ぬなら辺境地の農村ではなく解放軍の中で死にたい」、と私は悲壮な決意をしたが、体格検査にパスできるか、不安でしょうがなかった。まもなく、色弱の問題も分かり、緊張感がさらに高まった。私と同様、ほかの子弟も多かれすくなかれ、同じような健康問題を抱えていた。

招待所に父兄も集まり、毎日のように「作戦会議」が開かれ、みんな知恵を出し合って、体格検査をごまかす方法を考えた。あんま術で視力を一時的に回復させる方法が紹介され、私に、どこからか分からないが医者用の色盲検査のテストブックも渡された。ここで毎日、訳の分からない図案をページ数で暗記していたのである。ぜんそくを隠すため、毛細血管を収縮させる薬用スプレーも用意された。周到な準備のすえ、検査に臨んだ。陳軍長の肝いりであろう、農民の受検者と分かれこの十数人に対する検査は、最後に行われ、軍医たちの態度もきわめて優しかった。五メートル幅の検眼ラインを一歩踏み出しても、止めがなかった。触診で肝臓の腫れがすぐ分かったが、とくに問題なしとされた。色盲検査のテストブックは、事前に暗記したものと全く同一のもので、一発で通った。結果は乙種の「潜水艇合格」になった。こうして、健康上の不安を抱えたまま、私は数百名の鄒県当地の農民の子とともに、軍用貨物列車に乗り、夢の新生活に向かって人生の再スタートを切ったのである。

 

野戦軍595団

私が入った部隊は、陳軍長の麾下にある、済南軍区の野戦軍第67軍199師、595団だった。この編制はもちろん軍の秘密で、対外的には9656部隊と呼ばれていた。野戦軍とは歩兵のことであるが、解放戦争時期からこの呼び方が使用されてきた。戦闘の主力になる、全国の範囲で動く機動部隊の意味であるが、解放後、各地方に定着した。軍区とは行政単位の「地区」(=日本の中国地方のようなブロックに相当)にあたる軍の管轄の単位で、全国に十個前後があり、瀋陽、北京、南京、広州、武漢のような大軍区に対して、済南軍区は中ぐらいの規模であった。軍は日本の師団より大きい組織で、下部に師、団、営、連、排、班がある三三編成であった。同じ済南軍区の三つの軍(67、68,69)は番号の上野戦軍の中で一番若い部隊であった。各軍には四万ほどの兵力はいよう。軍の番号から推測すると、全国で当時の野戦軍の人数だけで200万以上があるようだ。 

団史によると、この部隊はもともと山東省を根拠地に活動する「一野」(解放戦争時の呼称、第一野戦軍のこと。陳毅は司令官)に属し、1949年、199師の一部として中華人民共和国成立の式典で儀式部隊をつとめ、一ヶ月ほどの訓練を受け、開国大典で正歩行進した。まもなく朝鮮戦争に派遣され、二回の戦役に参加したが、毎回、戦闘員の三分の二を失う壮絶な戦いを経験した、という。国民党の軍隊と違い、アメリカ軍は決して毛の言う「張り子の虎」ではなかったようだ。ちなみに朝鮮戦争は、人民解放軍が経験した一番ハードな戦いといわれ、死者20万以上を出した。軍が全滅し軍旗まで抜き取られたのも、三つの軍があったと聞いた。これらの軍は後再建されていない。毛沢東の長男の毛岸英もこの全滅した軍の中にいた。

当時の野戦軍は、緊張した辺疆地域を除き、食糧の「自給自足」の政策の下で、大部分は農業生産、軍事工事の請負などに従事し、各軍には、不慮の事変に備えて一つの団(戦備団)だけ、機動部隊として常時訓練をしていた。私が従軍した595団は67軍中の戦備団で、珍しく三年間生産をせず訓練中心の生活が続いた。軍事訓練を受けることは農業生産よりずっと光栄であるが、しかしいざというと、すぐ第一線に派遣されるリスクも十分あった。幸い私は無事に三年間を全うして復員できたが、復員三年後の1979年2月、中国とベトナムの辺境衝突(中越戦争)がおこり、こうした「戦備団」が招集され、前線に送られていた。自分がいた595団が派遣されたか定かでないが、たまたま、当時在学の大学に「政治教育」に呼ばれた「戦闘英雄」なる講師は、同じ済南軍区68軍の戦備団に所属する兵士であった。負傷して人工骨を嵌められた頭を叩きながら、中越戦争における自分の「戦功」を法螺ぶいていたが、この時私は初めてかつての自分の立場の危険さを悟った。長期服役せず復員して本当によかったとしみじみ思った一時である。

戦備団に分属されたのは、偶然ではなく、陳軍長の肝いりであった。軍隊で農業生産に従事するつらい思いをさせたくなかっただろう。我々幹部学校から裏口(走後門)で入った十数人はみな、戦備団のほか、軍の通信部隊、偵察部隊など特殊の部門に配属されていたのである。

 595団の兵舎は益都(青州)県の郊外にあり、三の営(九つの連)の歩兵を中心に、団部直属営の重砲連、高射機関銃連、82砲連など重火器の連が加わる強化団であり、全部で1500名ほどの戦闘員がいた。私がいる特務連も、団司令部の直轄部隊で、下に通信排(小隊)、偵察排、工兵排があった。偵察排は三つの班からなる36人の編成で、595団の中で、一番憧れた場所である。

 

軍事訓練

憧れた理由は、偵察兵の特殊の訓練内容にあった。基礎となる隊列、射撃、銃剣術、反戦車術、防空射撃などはもちろんこなすが、大部分の時間は捕虜技、格闘技、登山技、武装水泳、地形学などの特殊のプログラムに費やしていた。決まった教本もあるが、ほとんどは古参兵から教わるのである。

大集団で行われた歩兵のきつい基礎、戦術訓練とは違い、偵察排は単独で行動することが多く、夜間の訓練も多かった。見物にもなる捕俘術、格闘技などが始まると、周りの村の子供や見物者に囲まれる場合もあり、側を通る歩兵の隊列からも喝采の声を浴びたものである。団の行事があるとき、あるいは上の師、軍級の合同イベントなどがあると、決まって偵察部隊が呼び出され、格闘技のショーが披露される。そのためやらせのショーが組まれ、決まったルールで相手を倒したり自分も倒されたりして華麗な演出を競った。40年たった今でも、人民解放軍の宣伝の番組には、当時と同じような偵察兵による格闘技のショーが演じられている。

演技の時とは違い、一般の訓練にはハードな内容が多かった。相手を傷つけずに演技する中国武術とは違い、相手の要衝をねらった訓練内容が多く、安全基準もしっかり設けられていないため、怪我が多かった。とくに格闘中、背中を地面にたたきつけられる場合、首、頸椎がダメージをうける危険度は高く、実際自分の目の前で頸の損傷で緊急入院し、退院後も頸が回らない六班の江陰県出身の兵士がいた。もちろん、こうした軍の事故に対して補償も賠償もなく、事故後、炊事班に回され、復員を待っている始末であった。数回のあわやという経験があったので、その後特に命に関わる要衝の部分の怪我に自分なりに気をつけていた。格闘に関して私は腕力が弱いが、動作の正確度と巧みさでカバーし、上々の成績を収めた。

また訓練の内容に入らないが、文化大革命前から、調査部キャンパス周囲の田舎の子との集団けんかがよくあり、いざというときに備えて、中国相撲の練習に励んだ経験があった。軍で相撲術にものを言わせ、班のなかで相撲の名人といわれた。偵察排のなか、掖県出身の、私より一回り大きい農民の子と五分五分の勝負以外、相撲なら大体相手を制していた。もう何十年もしていないが、不思議に、今でも時々若いときの相撲の夢を見る。

登山技は主として断崖絶壁のある自然の山を選んで行い、安全ロープをつけて訓練した。今のアクション映画によく見られるヘリからのロープ伝いの急滑降の技も、その時覚えた。スリルがあり、格闘より楽勝の科目である。

得意の科目は、水泳であった。毛沢東は水泳が好きで、文革中74歳で長江を横断し、そのため文革中水泳は一番ポピュラーな体育活動であった。地理の利便で、私は小学校時代から、夏休みになると、毎日のように水泳パンツを頭にのせ、短パンにランニングシャツの姿で一キロ離れた頤和園の昆明湖を往復した。今と違って、その時、頤和園がはじめ、市内の北海公園などにも天然の遊泳場が設けられており、学生向けの、五角で三ヶ月使える遊泳専用の期間券が売られていた。排雲殿から竜王廟の660メートルのコースは(横渡)、北京市の遊泳イベントがよく行われた場所であり、組織された数千人の遊泳者は、赤旗、スローガンを掲げる船を先頭に、整列して渡っていった。私は小三の時すでにこのコースを完遊し、文化大革命中、悪ガキの集団に加わり、遊泳禁止の区域を含め、昆明湖全域を庭のように縦横していた。この本領は偵察兵で発揮し、十キロ遠泳、武装遠泳(もちろん浮き輪を付けない)などを問題なくクリアした。ここでは、実戦に備えた、着服、武器携帯の遠泳が多く、また、浮き輪の上での水上射撃訓練もあった。1974年の67軍の偵察兵合同訓練の試合中、私は1500メートル平泳ぎで一位の成績を収めた。この一位のおかげで、まもなく、軍区の専業遊泳隊に呼ばれ、済南市のプールでプロむけの競技用の訓練を受けたが、成績が出ず、まもなく頸になって帰ってきた。

水泳訓練は兵舎から遠く離れるダムで行うのが普通であり、農家の家を借りて、数週間偵察排だけの独自生活になる。もちろん自炊である。そのとき、江南の水郷からきた農村の兵からエビ取りの方法が紹介され、責任者の排長も、違反と知りながら、毎日のように一人か二人を訓練から外し、ダムで手作りのガーゼの仕掛けでエビを捕らせ、食卓を飾ったのである。軍には肉があるが水産品はないので、その時のエビのおいしさは格別であった。

黄河での武装渡りも訓練の科目であった。山東省内の黄河は、幅一キロあまりあろう。黄色い泥水で、もちろん水中で目が開けられない。横渡りは大体三、四キロの下流に流され、そこで、迎えのトラックにのり、出発地点に戻る訓練法である。入る前不気味な怖さがあるが、入るとなんでもなかった。流されているのは自分であるが、両岸の景色が流されているように錯覚した。不思議なことは、流れの急なところに波が立たず、うねりの高いところは浅い。うねり谷で足を伸ばすと、大体川底の泥に足がつく。黄河は毎年上流から大量の土砂が運ばれ、山東省内のほとんどは、川底が堤防外より高い地上河で、数十年に一度氾濫して流れが変わる。私たちが訓練をした黄河は済南の北にあり、よく氾濫する地域なので、土地はアルカリ性で、飲み水はしょっぱくてまずい。住民たちはみんなお茶で味をごまかしていた。

地形学も得意の科目である。多少地理や計算の知識が必要なので、頭の回転の悪い農村兵に嫌われる。難しいとされる方位の判断、距離計算など難なくクリアし、図上の訓練はすべて満点であり農村兵たちを圧倒した。使っている一万分の一の軍用地図は、高度の軍事秘密とされ、銃と同じように命よりも大切で絶対に無くすなと教えられていた。この地図で地形はよく分かるが、道路、村のデータが古く、戦時中、旧日本軍が作成した軍用地図を転用したものといわれる。

図面上の作業がうまくいく私であるが、現地を踏むといつも狼狽する。というのは体力の問題である。地図にある道は実際よく現状と違い、その都度、小走りで先を見て判断したり、近所の百姓を呼び出して聞いたりした。とくに団単位の大部隊の行軍の時、先遣となるのは我々偵察排であり、全団1500人の道案内の重い責任が負わされていた。軍事行動の時、軽装ではなく、小銃を含め20キロ前後の重装備姿であるので、走ったり、道をたずねたりすると大変な苦労を要した。上官の罵声を浴びながら、体力の限界の中で無我夢中走る。このとき、地形学の知識はなんの役にも立たない。

偵察兵として一番つらかった経験は、ある冬実戦訓練の中、偵察兵のため用意した、120キロの山道を昼夜問わず一気に走り抜けるという、サバイバル特別プログラムの時であった。月光に映るあの超えられない馬鞍山。地図上では800mほどの標高だが、道路らしい道路がなく月光に映し出された馬鞍状の陰にむかって、何時間か、ひたすら登りに登った。20キロ装備を引きずって山頂に立ったとき、綿入れの軍服越しに、行李の軍用布団にまで汗がしみこみ、座って立ち上がれなくなった。途中、倒れそうな思いが何度もした。小銃体でバランスを崩した体重を支えようとした時、班長の罵声が飛んでくる。「毛主席が渡してくれた革命の銃だぞ、貴様はなんのつもりなのか」と。この時、普段成績平平の農村兵の誰もが、私よりタフだった。極限の環境から育ったためであろう。本当の実戦なら、私は絶対先に死ぬだろうと、この時はっきり自覚した。中国には「馬鞍」となる地名、山名が多く、いまでもこの言葉の響きは、私にあの悪魔の夜行軍シーンを思い出させる。

 

武器装備

まえにも触れたように「野戦軍」という名前は、小銃一丁で動く革命時代の名残で、機動性能があるが、装備はきわめて簡素であった。近代戦の朝鮮戦争を経験した後も、この伝統に変わりがなく、装備は全く進んでいない状況であった。私が入営したころ、部隊にトラックのような輸送車両は一台もなく、機動車両というべきものは、団司令部のジープ一台だけであった。馬だけがあった。徐々に増えてくる輜重、重装備を運ぶ手段だった。団部直属の重火器営に、高射機関銃連、重砲連(といっても、我々が「山砲」と呼んだ、迫撃砲より少し大きめな武器)、八二連(バズーカ砲)があり、この連だけ、武器輸送用に馬を飼っていた。

仮想敵はソ連である。私が農村に下放する数年前に、黒竜江辺境の珍宝島で中ソ間の武装衝突が起こり、この時「ソ連修正主義」と「ソ連社会帝国主義」は、すでに「アメリカ帝国主義」を上まわって、もっとも危険の「第一敵」になっていた。珍宝島の衝突後、ソ連の武器近代化の様子が伝えられ、内部教本にソ連のT62戦車、ミグ21戦闘機などの武器が紹介され、歩兵で飛行機、戦車を破壊、撃退する方法、戦術も紹介され繰り返して訓練された。戦車を破壊する方法は旧日本軍の肉弾攻撃の方法によく似ており、要するに戦車の視野の死角を利用して接近し、爆弾を仕掛けるやり方である。対飛行機の戦術はもっと原始的で、二人一組か一人で、小銃を構えて、向かってくる、あるいは去っていく飛行機を銃撃することである。訓練といっても標的となる実物がなく、代用品の国産T54戦車も、三年を通して、一、二回しか見ていなかった有様である。また、原爆に備える実戦訓練もあった。マスクも防御服もない時代、塹壕に潜り込み、服で顔を覆うような防御訓練でしかなかった。こうした装備簡素の野戦軍は近代戦争に勝てるかと、率直に疑問を感じたこともあった。

小銃は56年式の半自動小銃(弾倉六発・単発、7.62口径)が中心だったが、私が入ったころ、63式の自動小銃に変えられた。しかし、この文革中製造された国産の自動小銃は命中率が低く、特に連発の速度が遅いため、二発目が標的に当たる命中率はきわめて低かった。照準もろくに校正せず出荷されていたので、部隊の射撃訓練の成績に響き、不満がおおかった。そのため、命中精度の高い半自動の56式小銃が淘汰できず、その後も一部の部隊で使われていた。射撃訓練は戦術訓練、銃剣術とともに歩兵訓練のメインテーマであるが、文革中の軍隊が貧乏だったため、歩兵連で実弾訓練の機会は年に二回、併せて40発ほどしか打たしてくれなかった。薬莢となる銅は、「国防貴重金属」と呼ばれ、薬莢の製造にも使い惜しみ、私の時代、緑の塗装をした鉄の薬莢で代用されていた。射撃訓練後、すべての薬莢が回収され再利用されていた。「特務」を担う偵察部隊の場合、普通の歩兵より射撃の機会が多く、夜間射撃、水上射撃、遭遇戦を想定した応急射撃などがあり、珍しく拳銃も装備されていた。拳銃は普通、排長以上の将校しか持てない護身用のもので、毛沢東の指示で階級を表す肩章と襟章(襟章があるが、赤一色で星はなかった)が廃止された文革当時、将校と兵士を判別する印にもなり、それを下げて歩くことは、ずいぶん鼻が高かった。種類は54式の一種しかなく、日本で「トカレフ」と呼ばれたソ連のモデルである。重くて、殺傷力が大きいと言われるが、教本による射撃の姿勢は、日本の刑事物語でよく見られる両手で構えの姿勢ではなく、片手であった。一キロ以上もある重い拳銃を自由に操るため、煉瓦をのばした腕につるしてずいぶん訓練されたものである。この「トカレフ」の拳銃なら、今でも目をつぶって分解でき、25メートルの標的なら百発百中の自信がある。

拳銃の射撃訓練には、25と50メートルの二種類があり、立ち打ちで6点から10点の命中精度で成績を計られていた。自動小銃の場合、100メートルと250メートルの二種の練習があり、実弾射撃の場合、検弾役の兵士は標的の真下に掘った立て穴に潜り、弾道を目で確認しながらサイン棒で指示し、修正させるという恐ろしい方法だった。安全手順に従って厳密に行われていたので、射撃場での事故を聞いたことがなかった。が、ある射撃訓練の後、標的をおく土崖が崩れおち、司令部直属営の上司副営長が巻き込まれて死んだ事故は目の前で発生した。

射撃場は決まって、旧河道の土崖の下で行われ、射撃の後、村の子供達は一斉に現場に殺到し、土崖を掘って弾頭を集めて換金していた。貧乏の時代、鉛が入った弾丸は貴重品でもあったのである。バズーカ砲の弾頭には、さらに戦車を貫通させるための貴金属があり、その射撃後、子供を待たずに、軍の関係者も着弾地を掘って、弾頭を持ち帰って記念品にしていた。

ある日の午後、団直属営の小規模のバズーカ砲実弾訓練の後、悲劇が起こった。副営長の立ち会いの下、若い兵士数人が土崖を掘っているさなか、十数メートル上の土崖が崩れ落ちた。危険を察知して動きの速い兵士たちは、一目散に逃げて無事だったが、太って動きの鈍い40代の副営長は逃げ遅れ、土の下敷きになって瀕死の重傷をおった。すぐ掘り出され野戦病院に運んだが、応急手術うけるため輸血が必要と言われ、われわれ特務連から同血液型の五名ばかりが集められ、トラックで病院に駆けつけた。私はその一人であった。軍人の場合、血液型が把握され、襟章の裏側に書き込まれるルールだった。結局準備している間に、副営長が息を引き取り、輸血せずにすんだ。

訓練の手順以外の勝手な行動(弾頭堀り)によって引き起こされた事故にもかかわらず、事後すぐ、副営長が若い兵士を庇うため挺身して土の下敷きになった、という英雄美談がでっち上げあられ、67軍内部で通達された。その「英雄実績」を書き込んだ内部書類が回され、勉強会が開かれた際、すでに共産党に不信感を抱き始めていた私は、もしかして毛沢東が称えた、解放軍全体、否、全国人民の偉大な手本――「雷鋒同志」(「為人民服務」のスローガンの代名詞にもなる解放軍戦士、1963年に事故死)も、このように人為的に作られたのではないか、とふと妙に思った。

 

政治教育

政治教育は解放軍の欠かせない重要な日課であった。毎日二時間ほどあっただろうか。またそれとは別に、週に二回ほどの半日の学習会もあったと記憶している。テキストは党中央の通達(文件)、毛沢東の語録、著作、時事新聞(解放軍報、人民日報)の朗読、軍の内部通達などさまざまであり、また毎日夕方の点呼の前、短い反省会もあった。「自我」と「私」の意識を根こそぎ絶滅させ、内心世界のすべてを留保なくさらけだし、共産党、毛沢東に忠誠を示すのが、教育の目的である。日本ではよく「洗脳」の表現を使い、その一方的、強圧的「思想注入」の過程を強調しているようだが、実はそれだけではない。共産党にとってさらに重要なのは「自己批判」、「自己暴露」といったような「吐き出す」内容であり、またその後必然に現れる自らの自己犠牲・献身の効果であった。強圧、注入の思想だけで社会主義と共産主義は実現できないと、毛は十分に認識していた。

「私は今日の溝掃除の時、汚泥で手を汚すことが嫌だと、一瞬の私念が脳をかすめたことがあった。この考えは、革命に対する不忠で、毛主席の期待に背くもので、心から深く反省いたします…」。「私は今日の実弾射撃でいい成績を収め、心の中一時自満、自大の雑念が起りました。これはブルジョア的虚栄心の毒害で今後二度とないように注意します…」といったように、ありもしない、あるいは実際に現れていない心の中の雑念を、毎日の反省会、学習会で懺悔し、白状し続けた。今考えれば本当にばかばかしい。みんなどう思っていたか分からないが、当時の私は毛の「闘私」の教えを信じ、一所懸命反省し、「私」と闘ったのは、事実であった。

政治教育、思想改造が目指した「大公無私」「革命への献身」の精神世界は、決して国外に多い凡庸の学者、評論家連中が好んで用いる、「権力政治」「独裁政治」の角度から簡単に解釈できるものではない。それは、歴史上本当に一時的に存在した自発の意識であり、また中国の革命を勝利に導いた「延安精神」そのものの本質でもあった。社会主義、共産主義といったような、「私欲で動く」人類の本性に反する理想的社会システムを成就させ、また存続させるためには、民衆全体の「公」のための精神世界の創出は前提となるが、それは歴史のある重大な時点で、外部的諸条件の成熟によって一時的に存在することが可能であった。戦前の中国社会にある民族的危機(日本による侵略)と階級的矛盾の白熱化は、その条件であった。活路が絶たれた民衆は、革命のために立ち上がる。この行動を支え、革命を成功に導いたのは、無私の「延安精神」であった。

毛沢東はこうした社会主義革命の実践に成功したが、最大の誤りは、こうした非常時下で一時しか存在し得なかった「延安精神」を、平常時においても永遠に存続出来るものと信じていたことにあろう。文化大革命を含めて、建国後の毛の一連の継続革命の実践の目的は、けっして「権力闘争」だけではなく、こうした失われつつある「延安精神」を維持し、また復活しようとする試みにあった。平常時に戻ると「私欲で動く」人類の本性が蘇り、一時的に有効だった思想教育も無効となり、次第に強制的、形骸化したものに変質してしまう。これは、私の軍体験からだけではなく、20世紀社会主義国家群の実践が帰結した歴史事実であり、社会主義国家が何故衰退し消滅したかを示す、もっとも基本的な道理であった。

大公無私の精神世界の創出と特権、裏口、私欲横行の現実社会とのギャップ。この1970年代以降顕著化した矛盾は、私の意識転換を促進した。「私」はいったい何者か、「自我」の存在意味、運命はいずこにあるかと、次第に考えるようになった。私は今日徹底した個人主義者になった理由は、こうした文革時味わった、悲しい、深い自己喪失への反省、反発、反動から生まれたといってよいだろう。

解放軍には、今もそうだが連以上の指導部に、長官と同格の政治指導員がおかれていた。軍事訓練を指揮する連長に対して、連指導員は共産党の組織を代表する存在で、思想教育を司る。班長、排長からの報告をうけ、連の幹部会議で兵士本人の素行は密かに評価され、「档案」に入れられる。もちろん評価される本人はその内容を知るよしはない。この「档案」には、本人の経歴、素性、政治姿勢、賞罰などだけではなく、数代前にさかのぼって、家族の出身、歴史、政治評価も記録される。私の場合、父は戦争年代八路軍に加わった幹部、母も大学卒のインテリで、血統が重視される文革中いつもこのことを自慢していたが、与り知らぬ档案の中には、別な内容が記録されていた。二年目、共青団(共産主義青年団=共産党の外囲組織)の入団を認められなかった私は、不思議に思い、「談心」(内心をさらけだすための、上官、古参兵への告白)の時、懇意のある古参兵に聞いたことがある。「絶対秘密だよ」と箝口を約束させてから教えてもらったのは、档案にある、父方の出身に「官僚地主」の記録があることであった。もちろん、このことに関して私は一切知らず、父の口からも、祖父の存在と父の家庭のことを一切聞いたことはなかった。父が死後、叔父から教えてもらったことだが、私の祖父にあたる人物は、戦前、政府の役人で遼寧省営口県の税務署長を務めた経験があり、家には土地のほか、リンゴ園なども持っていた。共産党の影響を受け日本の支配に反発した父は、のち、地主の祖父と決別し革命の根拠地に逃れ八路軍に加わったが、入党の際、革命に忠誠を誓い、地主の父と絶縁することを宣言した、という。解放後も、父は本当に一度も実家に帰ったことなかった。祖父はその後破産し土地を失い、農地改革時の階級評定は「中農」で革命の「味方」に入ったが、父子間の縒りは戻らなかった。死ぬ前に一目あいたいと兄弟を通じて父に懇願したが(父は小さいときからハンサムで溺愛され育った)、父は断固とこれを断った、という。

「革命美談」にもなりそうな事実にもかかわらず、このような出身と「歴史問題」は、父の档案に、そして私の档案にも記録され、結局私の政治生命に響いた。二等親の関係という私の場合はまだラッキーの方で、周りに、父母など一等親の「歴史問題」「政治姿勢」「出身」などにより一生、自分の進学、入党、就職などで疎外、差別されつづけた不幸な人はたくさんいた。

政治教育の一環として「革命映画」の上映会も頻繁に行われた。一、二週間に一度、軍の放映隊が訪れ、冬も夏もなく露天の練兵場で、簡易な腰掛けを持参して全団の兵士が整列して鑑賞する。レパートリーはきわめて貧弱で、ほとんどは「紅灯記」「智取威虎山」「白洋淀」などのような毛沢東夫人江青が肝いりで制作した「革命のモデル京劇」か、解放軍の伝統を讃える「南征北戦」、「地道戦」のような古い戦争映画であった。何回も何回も見せつけられたので、台詞のほとんどが暗記できるほどになった。政治教育だからもちろん缺席を許さない。もともと京劇が嫌いで入営三年目になってから次第に反発しはじめた。スクリーンの俳優の台詞が出る前、暗記したそれを変な声で真似して周りを笑わせたり、わざと背中をスクリーンに向けて座り、雑談する悪ふざけもしたりした。復員がすでに決まり、もうおそれることはなかったのである。

ほんの少し、外国語の勉強もあった。ある日、突然団部から敵工作のための外国語教育の要請が届き、特務連では一番賢そうな私が選ばれ、特訓に参加した、各連一名、十数人で二日間の特訓を受けた。その内容は漢字で表記した戦場用外国語をそのまま暗記し、大声でアナウンスすることであった。日本語の一句は今も覚えているが、「不克依奥斯胎労口労撒乃」である。この奇妙な漢字の組み合わせと訳の分からない言葉の響きは、私が接した最初の実用日本語であった。特訓班で「繳槍不殺」の意味だと説明されてはいたが、意味の分からないものを暗記し、かつ大声で発音する練習には一苦労を要した。大学に入ってからやっと、この奇妙な漢字の組み合わせは、「武器を捨てろ、殺さない」という言葉の漢語表記であることが分かった。

 

軍の食生活

解放軍は、制度の上で義務徴兵制であるが、毛沢東の時代には、壮丁源の心配はなかった。どこにいっても大量の若者の志願者が殺到する。とくに鄒県のような貧しい地域では。軍に入ったら、肉、饅頭があり、食糧がおなかいっぱい食べられることは、みんな知っていたからだ。

軍隊には各連を単位に炊事場をもうけ、炊事班によって、一日の三食が作られる。炊事班は大体、訓練してもどうしようもない出来の悪い兵士の集り場である。決まった食事代金は一人平均月に8元、食糧には、粗、細糧の比率が決められるが、配給量全体は無制限であった。炊事班の上に司務長という役職があり、大体市場と地元の情報を熟知する人が担当し、毎日のように手押し車で市場に出かけ、野菜、肉などを仕入れていた。食糧の中の三分の一は、「細量」に分類された小麦粉で、三分の二は雑穀(トウモロコシの粉、大豆、粟)であった。主食は饅頭、トウモロコシのパンが中心、米はなかった。野菜は白菜、大根が多く、ほかに季節のものもいろいろあった。仕入れの都合で、同じものの野菜ばかり、数週間たべさせられたこともあった。いま私が冬瓜を食べない理由は、ある冬数週間続けて食べさせられ、そのせいで皮膚の搔痒症状が起こり、見るだけでアレルギーが引き起こされるという経験による。豆腐は固い山東省風のものをよく食べ、肉が少量だが、毎日のおかずに入っていた。

量も栄養も十分であり、鄒県の農村兵にとっては、まるで天国のような生活に違いない。大都市での生活経験をもつ私にとっても、「粗量」がおおいことに不満があるが、全体的に規則的で、栄養バランスもよく、下放された東北農村より、ずっと健康的であったと感じた。野戦軍には食堂の設備がなく、鍋など炊事道具も、食器も号令一声で、押し車に乗せ、部隊とともに行軍することが要求されていた。

食堂と呼ばれる場所は設備の何もない殺風景な大部屋で、地面の白い丸い輪のラインが引かれ、班ごとに輪を囲んで蹲って食べていた。班の備品となるアルミの鍋二つがあり、一つは主食、一つはおかず用であった。当番は炊事班の窓口で飯をもらい、みんなの飯盒に配分する仕組みである。おかずは定量だが、主食は自由であった。食事の前、各班が整列して食堂前の空き地に並び、入室前約十分間、歌合戦をやって競争した。伝統の八路軍の歌、毛沢東の語録歌、文化大革命の歌など、行進曲が多かった。各班の班長が指揮を執り、班単位で全く違う歌を同時に歌い、他班の歌声を圧倒するのが勝負の目的であった。時には排ごとの三重唱で協力し、のどが裂けるほどみんな元気に歌った。このような軍歌の合戦は、解放軍の風物詩で、軍営内、朝から晩まで歌声が鳴り響いたが、食事前のそれは、一番元気があった。

日曜日になると、年に四、五回、餃子のサービスがあり、みんなはこの日を待ちわびていた。炊事班が作った具と小麦粉が配分され、各班を単位に皮から餃子をつくる。この時いつものように大競争が起こり、一番湯を使えるように各班はあらそって餃子を仕上げる。遅れるほどゆで汁がにごり、出来ぐあいも悪くなるためである。私は子供の時から皮作りが得意で、うちの班はこの時、いつものように私の指揮と仕切りで、連の中で一、二を争っていた。食べ盛りの若者の集まりで、その分造る量も大変なものであり、小麦粉だけで、一人平均400-500グラムが分配される。この量は、今日我が家で行う七、八人が集まる「餃子パーティー」の一回分に相当する。もちろん、一つも残らず、造ったすべてはきれいに平らげてしまうのである。

食生活で困ったのは、栄養不足ではなく、食べすぎて胃を壊す農村兵がよく出てくることである。特に入営後最初の数ヶ月、農村兵の大半はほとんど死に物狂い食べつづけた。そのため急な飲食環境の変化で胃の病気を患う農村兵は多かった。うちの班にいた即墨県出身の韓さんもその一人である。入営した時やせこけていたが、胃病はなかった。が、暴食を繰り返しているうち胃病、胃潰瘍になり、訓練中よく胃を抱えて坐り、苦しんでいる表情を見せる。おいしいものが出るとすぐこの苦しみを忘れ、むさぼるように口に運ぶ。一年で20キロも体重が増えたが、同時に胃の持病も抱えるようになった。食習慣に気をつけろと何度もアドバイスをしたが、まるで聞き入れない。これは、飢えを繰り返して嘗めさせられた、毛沢東時代の農民の活きる本能であろう。ちなみに私の場合も、故意はないが、軍にいたとき体重が増え66.5キロの自己ベストを記録した。この記録はその後、一度も塗り替えたことはない。

軍での衛生的、栄養バランスが良い食生活と合理的訓練のお陰であろう、当初の健康上の心配とは逆に、私の持病――肝炎、喘息――が完全に直り、入営した三年あまりの間、風邪すら引いたことはなかった。

 

禁欲な生活

文革の時代、恋愛も含め男女間の情事はすべて「ブルジョアジーの堕落思想」とされ、不倫、わいせつの言行などが発覚するだけで、「階級の敵」に回り、失脚する十分の理由になる。頤和園の遊泳場で女の子をちょっとさわった痴漢は、その場で「革命群衆」によって半殺しにされた上、公安に連行された現場をこの目で見た。あのリンチを受け顔中血だらけになった惨めな男は、おそらく一生この「罪」を引きずり、すべての前途、希望が抹殺されただろう。

高校の女の子もこの頃、殺気のあふれる女子紅衛兵に憧れ、わざと尊厳のある革命の顔を造り軍服をファッションとして愛用した。胸が大きい女の子は、みんなこのブルジョア的「性」と結びつく生理現象を不名誉、恥ずかしいと思いこみ、布のバンドなどで無理矢理押さえつけ胸を隠そうとした。同じ年頃の男女間もまるで知らんぷり、特別の用がない限り口をきかなかった。思春期にはいった私は、周りのこうした無愛想、無愛嬌で、男の目を避けようとしていたこわばった女の顔を見て、忌まわしい性欲というものは男だけにあるものと思いこみ、かなり悩んだ一時があった。

婦女への誘惑・乱暴を厳禁する紀律を掲げる解放軍の中には、女色に関する統制はさらに厳しく、服役期間中の恋愛が許されないばかりではなく、いかなる猥な話や性描写のある印刷物も厳禁されていた(もちろん当時はどこにいっても、このたぐいのものはない)。日曜などの休みで、外出した兵士が周りの村の娘とデートし(貧しい農家の娘はみな解放軍の兵士との結婚を望んでいた)、上司に隠れて正常な恋愛を試みたケースがよくあるが、事実が判明され次第、厳しい処分が待っていた。すでに結婚した兵士に限って、二年目以降、年に一週間ほどの帰省休みが許された。士官の場合も、ほとんど年中単身で兵士と一緒に営舎暮らしをし、年に一、二回ほど妻を呼び寄せ、兵舎内の招待所と呼ばれる平屋に数日一緒に過ごす程度である。

兵舎内で、大部屋に二段ベッドがたち並び、もちろん仕切りといったようなものはない。僅かの私物もみんな鞄一つほどの大きさの風呂敷に包み、連の倉庫にいれ、決まった時間帯だけ取り出せるきまりである。

このようなプライバシーが全くない、苦行僧のような三年間、二十前後の若者にとって、いかに性欲と向き合うかも、軍隊生活の試練の一つであった。殆どの人は、布団の中、あるいは夢の中で理想の彼女と出会ったのだろう。四班の周さんは、夜中よく隣のベッドに「侵入し」お隣に片足をかけて寝る癖があり、夢精して隣人に迷惑をかけたことも数回あった。故意ではないので、噂だけに留まった。夜間の哨兵巡回ではこうした行為を制止し、予防するのも職務の一つであった。

晴れた日曜日、みんなこつこつと、手洗いして洗濯するが、シーツについた精液のシミはいくらこすっても落ちない。兵士たちはこれを「地図」と呼び、一列に干された白いシーツをながめながら、互いに揶揄しあった。「君のやつは「益都県」とそっくり」。「ほら、こっちの大きいやつはまるで中国地図」。「そっちには世界地図もあるんだぜ!」といったように。

兵舎内には女気がまったくないが、外にでると、田舎娘によく出会う。一目惚れで娘を尾行して家まで押しかけた兵士もいる。こうした不慮の事件を途絶するため、日曜の外出は一人では許されない。いつも三人以上の集団行動で、軍服姿(服役期間私服が許されない)、整列して足並みを揃えて歩いたのである。兵舎外での格闘訓練時も、子供に交じって小娘たちが見物によくやってくるが、その時、決まってみんなは元気になり、一生懸命、相手を倒し、娘たちの前で自分の存在感をアピールしようとした。別に何になるわけではないが。これも動物の本能であろうか。

毛沢東が称揚した軍民間の親密な関係を維持するため、年に十数回もあろう、農繁期に近所の村の農作業を応援する行事もあった。こんな時、となりの田舎娘と並んで作業する機会がよくある。一回、除草作業の中、私は畦に蹲って働く田舎娘の襟元をチラリとのぞき込み、白いおっぱいを見て異常の興奮を覚えた経験があった。また、もう一つの人に言えない秘密もあった。解放軍の部隊に、軍、師など上の組織に専業の歌舞団があり、定期的に各部隊に出かけ巡回演出した。この時、きまって周りの村人にも軍営を開放する。娯楽の少ない田舎で、いつもたくさんの若者たちが集まってくるが、わが特務連はよく秩序の維持に動員される。劇場となる建物の入り口前に、我先に観衆の大群が押し寄せてくるが、兵士たちは人間の垣根をつくり、無秩序の乱入を防ぐ役目を勤めた。なだれ込む群衆を後ろに押し返す接近戦がよく行われるが、目の前に若い女性の体が急接近したこともよくある。その時、故意ではないような真剣な素振りを作りながら、わざと前列にいる若い娘たちの胸に手を当て押し返す隠れ技を何度も試みた。この行為、今風でいうとセクハラであろうか。

とにかく、性に関して、悩み・トラブルがあるが、私がいる間、内部通達の情報を含め性犯罪の事件を聞いたことはなかった。やり場のない、数百万の男の性をうまく制御できたのは、世界の中でも毛沢東の軍隊だけではなかろうか。

 

非暴力のいじめ

「解放軍には体罰、リンチ、暴力があるか」、とよく聞かれるが、はっきり「ない」と言い切れる。少なくとも私の軍経験には、身体に対する暴力を見聞したことはなかった。うちだけではなく、ほかの部隊にも暴力はなかったのではないかと思う。暴力沙汰がないのは、延安時代毛沢東が作った解放軍の紀律――「三大規律・八項注意」――が厳格に守られてきたためである。この紀律には、内外の暴力を厳禁するほか、捕虜をいじめない、民衆のものは針一本もとらない、言葉は丁寧に、農作物を荒らさない、群衆のものを壊したら弁償する、婦女をからかわず乱暴しないなどの内容があった。この鉄の紀律によって共産党の軍隊は大衆全体の支持を受け、腐敗した国民党軍を負かし革命を成功させる上に重要な役割を果たした。「三大規律・八項注意」は後もっともポピュラーな軍歌になって、国民全体に愛唱され、軍人のバイブルのように守られてきた。おかげで軍と民の関係は本当に毛が言う「魚と水」の関係のようにうまく維持し、軍人の犯罪も暴力沙汰もほとんどなかった。

一方、水面下で精神的リンチ、いじめ、差別などは日常のように起こる。戸籍を持たない農村出身の兵士にとって、入営は人生転換の跳躍台の意味があり、うまくいくと幹部(士官)に昇進し、貧しい、苦しい農村生活から永久脱出することもできる。幹部になるため、模範戦士になり、共産党の入党は不可欠であるが、服役の間みんな、自分の将来を左右する入党、昇進のチャンスを逃さないよう、血眼になって競争しあった。評価の基準は政治姿勢、革命理論の学習・理解、軍事訓練の成績、紀律遵守の状況、普段の生活姿勢など総合的なものであるが、直接上司となる班長、排長の見解や、共産党支部の意見などは、兵士の前途を左右する絶対の発言力があった。同じ軍齢、階級の兵卒同士の間で、嫉妬や熾烈な競争があるが、いじめはなかった。いじめは主として階級や、経年数の違う上下の人間関係に起こるものである。出来が悪いといじめられるのではなく、よくできると陰湿ないじめが始まるといった具合である。自分の出世の邪魔になる、という農民心理からきたものであろう。

自分の場合、農村兵に比べ教養のレベル(質)が相対的に高く、見聞も広いという簡単な理由で、直接に班長、副班長などから執拗ないじめを受けていた。野戦軍には都市の出身の兵士がほとんどないので(都市徴兵の行く先は主として空軍、海軍など技術系の兵種である)、なまりのない普通語を操り、文字も数も多く読める都市の子はすぐ目立つ存在になる。田舎に復員する恐れもなく同階級の農村兵から羨ましがられるが、絶対の権威と競争の優勢地位を確立しようとする班長にとって、厄介な存在になる。江蘇省南通県出身の黄班長は私と同じ年だが、軍齢は三年長い。気が利く性格で通信班のラッパ手兼連長の通信員(伝達係)を二年ほど勤めた後、連長の肝いりで偵察排の班長に転属された人物である。他人より確かにいろんな所で要領がいい面があり、ずっと順風満帆の昇進道を歩み、私が復員したとき、副連長に抜擢されていた。

一方、傍若無人、自信過剰の性格で、部下の前でものすごく威張っていた。こんな班長にこっちから毛頭競争する積もりはないが、なぜか向こうから勝手にライバルと認定され、競争されたすえ、いじめられた始末である。体力で勝負する軍事訓練の面で、二人は互角の成績だが、頭を使う地形学、政治学習などの面で、あきらかに黄は劣っていた。日常の生活中、古今中外の雑知識を持つ私はいつもほかの農村兵を引きつける存在であった。こうした「材能」と班における私のポジションは災いになり、黄班長は大変な敵意をもって二年間、班長・共産党員という有利な地位を利用して私へのいじめを繰り返した。毎日の学習会、反省会で批判されつづけ、毎日のように「小ブルジョア思想」の徹底反省や、共産党に対する心霊内部の告白を求められた。始めの頃、私は無邪気に彼の共産党員の地位を尊重し、求めによって、一瞬の雑念、栄誉心なりとも、留保なくさらけ出し、反省しつづけたが、一向に彼を満足させる様子はなかった。だんだんこれは、私を進歩させるための共産党組織の助け、要求ではなく、黄の個人的恨みによるものであると分かって、がっかりした。結局黄の恨みで、私の共青団への入団は同軍齢の農村兵より一年以上も遅れ、共産党入党の申請は最後まで認められなかった。「おまえはどこが偉いのかよ、ここは俺の天下だぞ…、都市兵のくせに、俺たちの飯種を奪うな…」――高く上げた黄の下あご越しに見えた、あの仇怨ともいうべき恐ろしい目つきは、40年近く経った今でも時々夢の中に現れ、うなされる。

いま思えば、黄の恨みはかならずしもすべては個人的怨念ではなく、復員先、将来の生活が保障されていた私をはじめとする、都市階層全体に対する農民の復讐でもあろう。

 

革命との決別

この共産党員である黄の振る舞いは、私がかつて抱いた解放軍、共産党に対する絶対信頼の情感を一掃した。党の組織も幹部も表面上「革命への忠誠」「大公無私」を言いまくるが、実際みんな自分の「私益」しか考えていないのではないか。「雷鋒」のような無私の人間はいったい本当にいるのだろうか。次第に、共産主義という革命の理想にも、「思想改造」の要請にも疑問を抱き始め、失った「自我」を取り戻そうとする心が目覚めはじめた。こんなところで一生を終えてたまるか。入党の申請を取り下げ、長期服役せずに除隊すると決断したのは、入営後三年目の22歳の時であった。

陸軍の服役期間は三年であるが、よほどの事情がない限り、みんな長期服役を望んでいた。満腹できる軍の生活への未練というより、貧しい農村から永久脱出のための、幹部昇進のチャンスを最後まで逃したくなかったためである。当時、軍人の退役には、「復員」と「転業」という二つの道があり、「復員」とは、退役して元の生業に戻ることであり、農村出身の兵士なら、農業にもどることを意味した。一方「転業」とは退役後出身地に戻らず、軍の斡旋で都市、町などで新たな職につくことで、下士官以上の幹部なら、この特別な配慮を享受できた。転業はこうして、農業から工業への職業選択だけではなく、戸籍をもつ「商品糧」人口層(都市人口)への転身も意味する。長期服役を志願する農村兵士のほとんどはこの転業の機会をねらっていた。

一方、実際上幹部昇進の道は狭く、大多数の競争者は長期服役をしても結局復員の道を歩まざるを得なかった。失意の内に復員させられた古参兵の多くは、除隊する直前、上司に対する不満と怨念が高まり、わざと口実を付けて、上官に反抗したり、軍記を乱したり、訓練をじゃましたりするケースが多かった。こうした古参兵のことは「兵油子」と言われ、特に新兵への悪い影響が警戒されていた。場合によって、武器を使った報復行為も行われる。当時解放軍内部の情報は内部通達の形式が軍全体に回覧されるが、私がいた三年間、復員を控えた古参兵が、小銃で班長、幹部を射殺した内容の通達は、二回ほどまわされた。普段弾薬は厳重に管理されていたとはいえ、数発の弾丸を隠し持つことは、難しいことではなかったのである。このような不祥事を防ぐため、約半年前から、復員予定のすべての古参兵に対して、夜間パートロール、歩哨を解除する特別の「優遇」策がとられた。除隊のシーズン、普段威張りまくった班長、排長連中は、びくびくして復員兵への対応は、いつもよりずっと丁寧であった。

話が戻るが、私は班長の黄からいじめを受ける一方、同時に訓練などの面で偵察排にとって欠かせない重要な存在でもあった。特に水泳、地形学などの面で成績がよく、試合、試験などを通じ67軍全体の中でも名が知られていた。連の幹部は、軍事訓練の中堅として私を残すため、黄(この時黄は排長、私は副班長であった)に三年目に私を入党させ、幹部昇進の可能性を示唆する指示を出したが、黄は農村兵の心理から、私の長期服役の志願を見込んで四年目にこれらを解決する「内約束」に変えた。「毛主席、党組織はあなたの長期服役を望んでいる…」と、いかにもまじめそうな顔で相談した黄に私は屹然と拒否した。「共産党に加入せずに復員するのか」と、さすがの黄も一時狼狽した。

こうして入営して四年目、革命軍隊からの「おみやげ」(農村の兵は、復員時約八割以上入党を果たしている)一つもなく私は自らの申請で復員した。農村兵たちの目から見て「負け犬」のような結末だったかも知れないが、私にして、この復員には、人生の転機、革命への決別、自我の目覚めという人生の里程標になるいくつかの重要な意味があった。復員後就職した天津市の紡績機械工場の職場で、私はいきなり共青団組織に退団届けを出して周りを驚かせた。共青団の規定には満23歳で退団できるという項目があるが、革命組織からの脱退という不名誉なきらいがあり、事実上届けを出す人はいなかった。この突飛な行動をもって、すこしでも多くの人に、私の思想転換の決意を示したかったのであろう。時は1976年の春、文化大革命はすでに幕を閉じようとしていた。

振り返って見れば、除隊の決意は、私の人生における正しい選択であった。のち学問の道に入り、また、やましい心なく「私は共産党員」ではないと自慢できるのは、このおかげであろう。のち書いた『現代中国を見る眼』(丸善ライブラリー、1997)にある民衆の「意識転換」論の原点も、実は私自身の軍体験にあった。あのとき、もし長期服役して共産党に入り、幹部に昇進したら、今日の私はないだろう。ひそかに共産党員黄のいじめに感謝してもいる。黄はいまどこにいるだろうか。軍に留まっていたら、少なくとも大佐以上の高官になっているだろう。

三年あまりの革命軍隊での生活は決して無駄ではなく、私に強靱な意志力、健康な体、また自分の価値観で是非を分弁する能力を授けてくれた。今、優越な平和的生活環境にもかかわらず、活きる気力がだんだん失われていく現代の若者にも、是非味わってもらいたいものである。(2008.2/小説)

bottom of page