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本の裏話

 最近、『現代中国を見る眼』というささやかな本を丸善から出した。同時代人である私が書いた、戦後中国民衆の精神史である。「日本史」の看板と直接に関係を持たないので、教室の中で宣伝する気はない。しかし、実をいうと、これまでの「でっちあげ」の作品より、この小さい本を多くの人々に読んでもらいたいのが本心である。


 歴史学の扉を叩いてから十数年、「生きた歴史」という言葉は、すっかりなじみ深いものとなっていた。時には、自分でも分かったような顔をして、若い学生にお説教をしたりした。しかし、本当にこの言葉の意味が分るようになったのは、この小さい本の執筆を通じてであったと思う。  作業は一年も続いた。修辞面の苦吟というより、瞑想に費やした時間がずっと多かった。時々、自分が本の中の時代に戻ったように錯覚し、登場人物の考えに共鳴し、彼らの叫びに感動を覚え、また彼らの不幸に同情の涙を流した。もっとも、主題に取り上げた「民衆意識の転換」は自らの経験でもあった。

 

 実は、決して故意の選択ではなかったが、ほんの身近の出来事もこの本の中にあった。資料にあげた『シングル・ティアー』の主人公、知識人巫寧坤にまつわる話である。


 似たような知識人の回顧録が数冊あるが、私はこの本を一番買っていた。主人公巫の数奇な経歴だけではない。良心を売ることなく、共産党の「思想改造」を拒否し続ける著者の愚直の心にも惹かれたのである。読み出すと手放せなくなったこの本だが、次第に主人公の巫がごく身近な存在であることが分かってきた。


 巫は1951年、成立して間もない新中国の建設に貢献するため、アメリカから帰国し、乞われて燕京(北京)大学で英語の教鞭をとっていた。まもなく、「三反」という政治運動が起こり、「思想改造」の問題や個人経歴問題で批判、追及され、運動後の1954年、天津市にある南開大学に左遷された。

 

 実は、ちょうどその年、私の母が南開大学を卒業し、人手が足りなかったことから、そのまま居残って若手の教員になった。専攻はロシア語なので、英語科の巫寧坤と同じ外国文学系(学部)に属したはずである。

 

 巫は南開大学でも、言論の自由を要求し、思想改造に反発したため、1955年、学部内でっちあげられた「反党グループ」事件で吊し上げられ、さんざんに批判された。この事件は、百人あまりの教職員から三人の死者を出してやっと収まったが、命拾いした巫は、今度北京にある「党幹部学校」に転属されることになった。最初は英語の実力を買われ、仕事も順調だったが、まもなく1957年に「反右派」運動が始まり、巫は「大右派」として最初の生け贄にされた。批判されたすえ、裁判も受けられず監獄行きの身となった。巫はそこで「大躍進」に続く「大飢饉」のなかを生きながらえ、釈放後も矯正労働を従事させられた。冤罪を晴らして仕事に復帰できたのは、22年間も経った文革の後である。

 

 本を読み進めるにつれて、さらに新たな事実もわかった。巫が右派として吊し上げられた「党幹部学校」とは、実は今日の国際関係学院(大学)であり、それは私の父が亡くなるまで勤めた場所でもあった。この学校は、文革前は中央情報機関(CID)に直属した語学訓練学校で、場所は、CID本部と同じ「大院」の中にあった。ちなみに、私の父も1958年ここに転任し、また、巫の同僚だった母も1960年から北京外国語大学に籍を移し、一家はCID本部構内の官舎で生活した。巫のいう「党幹部学校」は、子供のわれわれがよく遊びにいく、「紅楼」と呼ばれた建物内にあった。ただ、私たち一家がここに引っ越した当初、巫はすでに監獄に入れられ、ここにはいなかった。

 

 

 奇遇がまだ続く。巫は改革開放後の1979年、冤罪の身から解放され、元「CIDの党幹部学校」たる「国際関係学院(大学)」に英語の教授として復職したが、同じ頃、私の父も、文革の動乱をへて、下放先からこの大学に転属され情報学を教えていた。つまり父は、専門分野こそ違うものの、復権後の巫と、数年間一緒に仕事を共にしたことになる。また、官舎も同じくこの大学のキャンパス内にあった。巫の本を読み進むうちに、熟知した大学構内の風景や人物が次々に出て来て私を驚かせた。


 父はだいぶ前に亡くなったので、前回帰国の際、私はいまなお国際関係学院の官舎に住んでいる母に、巫のことを訊ねた。思った通り、母は巫のことをよく知っていた。南開大学時代の同僚であり、また巫がアメリカに渡る前数年間、同じ棟に住んでいた、と。

 

 

 南開大学で巫を吊し上げたことも話してくれた。一見、群衆による自発的な糾弾のように見えるが、実はすべて組織的に計画したもので、発言者の名前、順序さえも、周到なお膳立てに従っていた。また、内容は「忘れた」が、若い共産主義青年団員の母親も組織の指図の通りに発言し、巫の「反革命行為」を糾弾した。「党から与えられた“任務”だから、誰もノーと言えないでしょう…」、と母はいう。


 自分の母親も、巫の描写した「テーブルをがんがんたたいてわめ」き、「ヒステリックな非難」の声を張り上げた加害者の一人だったのだ! 驚いたことに、母は今でも巫のことを「大右派」、「悪い人」と決めつけ、また、自分の加害行為に対して反省しようとしない。同じ棟に住んでいながら、母はこのかつての同僚に声をかけたことは一度もなく、まちろん、謝ることもしなかった。知らん顔で最後まで通したのであろう。もっとも、度重なる政治運動からの、また、無数の「人民」からの攻撃に疲れはてた巫は、母親のような小さな存在を気にもしていないし、覚えてもいなかったことだろう。


 巫が書いた『シングル・ティアー』の本も、母は知っていた。しかし、読んでいない。「国家の機密を漏らし、中国の悪口を言う反党、反社会主義の悪書だ」、と決めつける…。ここまでくると私は黙り込んだ。もうこれ以上年老の母を責める気にはなれなかった。数年来追い求めつづけた、「加害者の心理」についても、なんとなく分かったような気がした。文革が終わって20年たった今でも、かつての加害者の大多数は、依然母親と同じような心理にあるのではないか。これはまた、「過去」を背負った多くの日本人にも通ずる心理であろうと、私は“納得”した。


 巫が批判した、ある「共産党員の日本語教官」(元学科長)はいまでも我が家の常客で、私の滞在している間にも、挨拶に来た。彼も母と同じように、巫のことを「悪い人」だという。
 巫の本に、母親の名前が出ていないことを、僥倖と思った。

   (1997年日本研究室プロフィール)

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