姉
昨年(1998年)の暮れ、肺炎にかかった息子夏聡(13歳)を看病するため、僕は急遽帰国の途についた。五年ぶりの天津。夏聡を預ける、義姉(妻の姉)の家に身を寄せた。天津大学(かつて吉野作造が講師を務めていた北洋学堂は前身)の住宅地区にあり、2DKの約65平米の職員宿舎である。姉はいま、大学の直営企業に勤務する夫と次男の三人暮らしで、週末には、寄宿舎から帰る夏聡もその家族の一員として加わる。
姉は、いまや甥夏聡の頼もしい保護者になりきっていた。洗濯、炊事など日常の家事をこなす傍ら、夏聡の宿題にも目を通し、週一回、必ずといって良いほど、私立華夏学校へ夏聡の様子を見に行くのである。半年も経たないうちに、夏聡は言葉の壁を乗り越え、すっかり姉の家に溶け込んでいった。親にいわない内緒話を、姉、従弟金海になんのためらいもなくうち明け、週末の姉家族との団欒をも、なによりの楽しみにしていた。
姉は、1949年生まれの49歳、身長168センチの大柄である。妻と同じような体つきだが、骨格だけ一回り大きく見える。活発で情熱的な妹とは反対に、姉の性格は穏和で、静かである。口調は緩やかだが、声は朗らかで妻のようにボリュームが大きい。化粧をぜんぜんしないのに、色白で顔立ちは実に美しい。額に刻まれた二本の年輪以外、とても不治の病におかされた、50歳近くの婦人に見えない。
姉は末期ガンの患者である。十三年前直腸ガンで手術を受け、二年あまり前、ガンの再発と転移が見つかった。すでに手術不可能の状態、半年の命といわれた。そのため、医科大学の仕事から退き、今は、医学的にいうといわば「終末医療」をうけている状態である。だが、二回も死の宣告をうけ、姉は結局死ななかった。一時通院して放射能療法をうけたが、いまは、民間の気功療法だけにとどまり、家庭で健常者と同じリズムで生活していた。病変のガン組織も一時的だが、奇跡的に蔓延が止まった。しかし、今年の六月に、新たな転移が検出され、一時、姉は再入院した。僕がお邪魔する二ヶ月まえに、退院したばかりである。
医療教育者の姉は、自分の病状の深刻さは家族の誰よりもよく知っていた。死の用意はもう幾回かしたのだろう。まだ活きているのが不思議。姉はいま、神に恵まれたはかない、奇跡的な生を、きわめて冷静に、受け止めているようだ。
息子を看病するための帰国だが、姉に会う前、どのように本人を慰めようかと、ずいぶん悩んでいた。結局、生と死に関しては、姉と同じ次元でものごとを考えることがもはやできないと悟り、僕は下手な慰めをやめ、なにも聞かないことにした。ガンのことは、まるで知らない振りを装い、日常生活でも姉をあたかも健康人のようにあつかった。姉の健康状態にとって酷であるが、こうすることで、本人に生の勇気と力を与えられるのではないかと、僕は思いこんだのである。
姉も努めて健常者の生活を続けようとしているように見えた。家事、買い出しのほか、夕方のくつろぎの時間、夫といつも仕事のことで笑談した。夏聡が肺炎にかかっていた間、毎日のように病院と家を往復し、病院通いの随伴、医者の紹介、薬局通い、点滴など、健康な親と同じように世話し、僕が居候している間、洗濯物など僕の身の周りの面倒まで親切に見てくれた。少しでも家事を分担しよう、あるいは息子のための病院通いを自分で行こうと申し出たが、姉の固辞で結局数回の炊事だけにとどまった。夏聡が快復して復校した日の朝」、吹き荒れる寒風の中、僕を夏聡の学校まで案内してくれた。
多少右足を引きずって歩く感じだが、姉はまるで健常者のように精力的に動き回っていた。日本を発つ前、妻から教えられた話だが、最近足の具合が悪くなり、骨転移と疑われた。姉は一回レントゲン撮影を受けただけで、医者の診断を拒み続けた。もう三度目の死の宣告を聞きたくないためだろう。
姉は四人兄弟の長女で、小学校時代、天津市でも名を知られるエリート学生だった。天津市一の名門校たる実験小学校でたった一人の少年先鋒隊の大隊主席を努め、時々市の学生代表として各種の国家的イベントに参加する栄誉に恵まれた。その後、優秀な成績で天津市一の進学校第十六中(中高校)に進み、高一の時文化大革命に遭遇した。姉の順風満帆な人生はここで、終止符が打たれた。第三中学校校長だった彼女の母が紅衛兵に迫害され自殺したあと、姉は体の弱い父を助けて幼い兄弟三人の面倒を見る母親の役を担うようになった。一九六九年、四歳下の妹(僕の妻)を連れて黒竜江省に赴き(下放)、五年間、「北大荒」の貧しい村でひたすら毛沢東の「思想改造」に耐え抜いた。知識のすべてが否定された赤い政治の時代、教養を身につけることは決して悪ではなく、いつか知識が重視される日が来るだろうと信じつつ、姉はきつい野良仕事を従事する傍ら、妹とほかの有志を組織して密かに中国の古典を輪読したという。
一九七四年、幸運に恵まれ労農兵学員の選抜で天津医学大学に入り、また農村で知りあった同じ下放青年の夫と結婚したが、大地震(一九七六年)の恐怖の年に生まれた長男は、なぜか知的障害の子であった。十数年苦労して長男を独立できる社会人に育てあげ、八五年可愛い次男を産み、一家の生活が転機を迎えたように見えたところで、ガンに冒されたことが分かった。前兆があったにもかかわらず、長い間、父の看病に心労し、葬式が済んでからやっと診察に赴いたという。既にある程度、ガンが進行していた。
自分の将来はもはやない。退院した後、姉は仕事に励む傍ら、親譲りの教育家の天分を発揮し、自分の夢をすべて次男の教育に注いだ。姉の導きで次男の金海はずっとエリート学生でありつづけた。小学校の時から、天津市の知力テストや、数学オリンピックなどで数々の賞に輝き、中学受験にも優秀な成績を上げ、かつて姉が在学した第一六中の唯一の奨学クラス――将来が保証された超エリートクラス――に見事に合格したのである。息子の成長は姉にとって最大の楽しみであり、生き甲斐でもあった。このような姉に我が子を託せたのは、申し分のない幸運であり、最高の贅沢であると思う。
天津を離れる時、姉が見送ってくれた。いつものように、右足を引きずり気味でゆっくりと歩いた。タクシーが来て、座席に座り込んた。車窓越しに、姉が手を振っているのがみえた。今度いつ会えるかと思うと、僕の目頭が急に熱くなり、姉の顔を見る勇気を失った。悲しい表情を姉に見せたくなかったのである。姉もそれに気づいたのだろう、そっと背を向けた。そのまま、車は走り出した。振り返ったら、姉はまだ後ろ姿のままであった。いまの姉はどんな表情をしているだろう。僕最後姉の顔を見なかったこと、後悔して、たまらなくなった。きっといままでと同じ澄んだ美しい顔に違いない。空港に行く間中、姉の後ろ姿は僕の脳裏に焼き付き、離れなかった。
姉は、僕の知った、一番美しい、一番強い、一番偉大な女性である。
(この文章を書き終わった1999年1月12日、僕は姉のガンが骨転移した悪報をうけた…)