呉傑先生を懐う
呉傑先生は昨年の八月、八〇歳で亡くなられた。平均寿命がまだ短い中国において、八〇歳の死は「天寿を全うした」といって、よいかも知れぬ。まして普段から体が弱かった先生にとっては。実は十五年前、最初にお目にかかった時、先生はすでに「老人」のように見え、髪の毛は真っ白、杖に頼って歩いておられた。前の文化大革命で大変なご不幸を蒙ったようで、精神的な打撃だけではなく、体を壊し、腎臓も一つ摘出されたと聞いていた。
あまり世間を騒がせたくないというご本人の意思であろう、海外にいる弟子の私は、ついに悲報を受けることができず、先生のご逝去を知ったのは、だいぶ後のことで、中国から帰国した早稲田の依田憙家先生を介してであった。
私は不遜にも先生の「弟子」と自称しているが、実は正真正銘の弟子と言いがたい。一九八二年、私を含む三人の学生が先生の学問を慕って復旦大学の大学院(日本史専攻)に進学し、文革後、先生の門下に入った最初の弟子となるが(現在関西大学で教鞭をとっている日本近世思想史専攻の陶徳民氏もその一人だった)、その中で、私は同時に官費留学の資格も得たので、復旦で先生の指導を受けたのはわずか一年弱だった。
名門の復旦に入り、中国日本史学界の大家である呉傑先生の門下生となったことを大変名誉に感じたが、同時に、心はおろおろして落ち着かなかったのも事実であった。学問の「投機」者たる私の浅薄さがすぐに見破られることへの懼れだけではなく、初めて「大物」の謦咳に接することへの不安も理由の一つであった。
文革後まだ間もない当時、「教授」の肩書をもつ先生といえば、どこの学部も数名しかなく、学生にとっては、いわば雲の上のような存在であった。年齢も軒並み古希前後、普段はほとんど授業を担当しないので(授業の担当はおおむね、講師陣以下の若い先生たちであった)、顔を見ることができるのは、年に数回という有様であった。(ちなみに、あの有名な歴史家の周谷城も、私は歴史学部に在籍しながら、ついにお顔を拝見することなく復旦を離れた)。
しかし、呉傑先生は違っていた。年がすこし若いためか、そうした偉そうな感じは一切なく、とても親切で親しみやす人であった。ほかの近づきがたい教授たちと違い、先生はほとんど毎日、日本史研究室や、学部資料室に現れ、授業などで顔を合わせた。いつも穏やかな笑顔を浮かべながら、上海訛りの強い言葉(上海付近の松江県のご出身)で静かに語りかけ、時には、流暢な日本語を使って講義を進められた。また、学問だけに限らず、結婚、就職、家族など、学生ひとりひとりの身の回り瑣事にも気を配り、アドバイスをしてくださった。休日や夜、寄宿舎に足を運び、我々の様子を見に来ることも、しばしばであった。
先生は若いとき京都大学の経済学部に学び、専攻は日本経済史であった。堀江英一などの先生の手ほどきを直接うけていたそうで、共産党の「思想改造」を待たずに、帰国する前、マルクス主義経済学を修得しておられた。授業や余談の時、好んで当時のアカデミーの裏話や、講座派と労農派の資本主義論争のエピソードなどを口にしておられた。京大を卒業された後、さらに東京大学の法学研究科に進み、修士号を取得して戦後、帰国された。当時の中国日本史学界は数百名の会員を擁し、日本留学の経験者も少なくなかったが、留学中真に学問を修め、また日本の「史」学を専攻した先輩は、呉傑先生と東北師範大学の鄒有恒先生だけであった、と聞いている。
先生は、解放後の大学に政治的態度で羽振りを利かせた共産党員系の教員ではなく、学問一筋の伝統的なインテリであった。共産党の世の中に生きながら、一生、無党派を通した清廉の士であった。自分の良心に反して発言したり、心にもない政治立場を表明したりするようなことは、可能な限り避けておられた。もともと、穏和で寛容精神に富んだお人柄なので、実権派の共産党系の教員との間柄も決して悪くなかったが、戦時中「抗日」活動と無縁に過ごし、日本で学問を専心しておられたことは、結局敵性行為と見なされることとなり、過去の「政治運動」でずいぶん追及されたようである。
学問ではなく政治的立場を優先する毛沢東の時代、こうした「経歴」の問題は長く尾を引き、先生は一生不遇であった。文化大革命中につるし上げられた受難はともかく、その後、研究室に戻られたのも、教授への昇進、さらに博士指導教授の資格認定(中国では、教授の格を示すもの)も、後進、弟子たちより遅かった。ちなみに私が復旦にいたときも、六五歳を越えた先生の肩書にまだ「副」の字がついていた。日本の研究者に紹介状を書いてくださったときも、そのことが私に不都合をもたらさないかと、かなり気にかけているご様子だった。このような大家を抱えていながら復旦大学の日本研究が他大学より遅れていたのは、先生の不遇と深い関係があったと思われる。
しかし、日本への紹介状を書くとき以外、先生はこうした不遇を一切気にせず、すっと副次的な存在に甘んじておられた。辞典の編纂、文献の翻訳など、名の上がらない仕事に黙々と従事し、上げた成果は、年齢、経歴を問わずに共同作業者の全員(我々院生をも含めて)で平等に分かち合った。まだ原稿を書くことさえおぼつかなかった院生時代、『吉田茂伝』の翻訳分担に加わることがあったが、初稿以降全くタッチしていなかった海外の私の手元にも、原稿料がきちんと届いた。過去に繰り返された政治運動からの苦い経験のせいか、先生は若い人、また共産党系の幹部に頭を下げること、すっかり慣れていたようである。「あんなヤツにも…」と、憤りを覚えたのはむしろ弟子の私たちであった。日本の大学で助手の職をえた時点から、先生は私への手紙にも、「先生」の呼称を付け加えるようになった。恥ずかしい限りである。
先生は非常に多才で、「碩学」というにふさわしい昔タイプの学者肌であった。専攻は日本経済史だが、政治史、思想史にも通じ、授業では、ヤマタイ国、大化改新から、日本資本主義論争、戦後改革まで幅広く講義された。また日本の時事政治にも強い関心を示され、政治変動がある度、授業に取り上げ議論に花を咲かせた。こうした政治センスを晩年まで保持し、数年前岡山に赴任した私への手紙にも、「現地は橋本龍太郎の地元で、自民党保守勢力が強い…」と教えて下さった。また中国史にも造詣が深く、文革中、自分の学問ができないので、歴史地理の大家譚其驤先生の仕事を手伝い、地方誌の校注に精を出しておられた。
先生はなかなかの筆達者で、書がとてもうまかった。自宅の机にいつも硯と筆を置き、手紙のほとんどは筆で認めておられた。また中国古典をこよなく愛し、自らも漢詩を作ったりしておられた。この文を草する前、私は『日本アジア言語文化』(大阪教育大学日本・アジア言語文化センター)に紹介された「呉傑先生漢詩六首」を詠む機会を得たが、改めてその造詣の深さに感服した。
先生はまた非常に思考の柔軟な方であった。私が復旦にいた当時、歴史学界ではまだ御用学問の垢を拭いきれず、階級・政治的立場の表明が求められるだけではなく、マルクス、レーニン、毛沢東の語録を引用しないと論文として成り立たない有様であった。しかし、先生はこうした堅苦しい要求や学風はいっさい排除して、日本帝国主義の大陸侵略と日本近代思想文化の進歩という複眼の方法を用いて講義を進められた。また政治的立場、立論先行の文革直後の学風と違い、先生は珍しく史料中心の実証方法を堅持し、孫引き、翻訳ものではなく、日本語の原史料の重要性を我々に教示された。また反対の意見、後輩の意見にも耳を傾け、合理点が少しでもあれば謙虚に受け入れた。先生が副会長を務めた、御用機関的で自国中心主義的だった当時の中国日本史学会に学問の新風を吹き込むため、先生はいつも熱心に日本史学界の最新動向・著書を客観的、かつ好意的に紹介しておられた。
こうした先生の学風は、私に鮮烈な印象を与えた。当時の中国日本史学会では、「明治維新」が近現代史のもっとも関心の高い課題であり、またそれを「ブルジョア革命」とする考えが主流であった。一次「革命」の成功と国家による近代化論がもてはやされる裏で、「自由民権運動」や「大正デモクラシー」など民側の動きは完全に無視され、中国国内の歴史教科書にその固有名詞を見つけることさえ難しい状況であった。こうした風潮の中、私があえて大正デモクラシーを選んで研究の課題としたのは、複眼の方法で日本の近代を見るという先生の啓発を受けたためであった。
最後に先生にお目にかかったのは、一九九三年の夏、早稲田大学の深谷克己先生を代表とするアジア民衆史研究会の一行に付き添い、復旦大学を訪問した時であった。その時、先生はすでに車椅子の生活と聞いていた。病床までお伺いしたいという我々の再三の申し出にもかかわらず、先生は、わざわざ会場まで車椅子でおいでになり、短い時間ではあったが、我々と懇談なさった。この時の先生は、まるで臥床の病人でないかのように、日本の最新の時事動向について、的確で鋭い意見を述べられた、日本を離れて一週間ほど新聞も雑誌も見ていなかった我々一同を驚かせたのである。その時、先生から十年間をかけて苦心して編纂した『日本史辞典』が手渡された。しかし、私は一行の案内役も兼ねていたので、その場で先生と個別の話はできなかった。その後、お見舞いに行こうと、時々、気にかけてはいたが、多忙に追われ、とうとうお会いできないまま先生はあの世に旅立たれた。残念の限りである。
日本に留学する前、先生はわざわざ大学付近のレストランで送別の宴を設けてくださった。私の杯に酒を注ぎ、「我々のように、中国の国内で名を売る学者ではなく、日本の史学界でも認められるような研究者になってほしい」と、希望が述べられた。先生のこのお言葉は、日本の大学院入試にさえ不安を感じていた当時の私にとって、まさに夢のような、またあまりにも酷な要求のように思われた。
それから十数年、異国の土地で私は、日本史研究の道を歩一歩とあゆみ続けてきた。研究生活の明け暮れに疲れを感じ、安逸を求めようとする弱い心が時々おこるが、その時、先生のこの言葉を思い出しては、自らを戒めてきた。先生の希望にそうにはいまなお道のりは長い。お言葉は今後も私を励まし続けるであろう。
安らかにお眠りください。<一九九七年清明>
『近きに在りて』1997年6月号