三匹の小うさぎ
僕はペットが嫌いだった。飼育の面倒臭さ、動物の臭いもその理由の一つだが、そのほか、ある種の動物を容赦なく屠殺して食卓にのせ、他の種類を可愛がる対象にし、あるいはその品種の保護を訴える人間の「偽善」に対する反発のつもりでもあった。人間は動物の肉料理を好む以上、動物保護を訴える資格はない、と僕は主張した。もちろん、僕もこうした資格のない人間集団の一人であるが、「偽善」だけはしたくなかった。普段、このヘリクツを家族に説いて聞かせるだけではなく、友人にも言いふらしては、偽善者たちの恨みを買った。
日頃のお説教が幾分実ったのか、さすが僕の家族には、これまで「うるさいおやじ」の前で、動物ずきと言える勇者はいなかった。しかし、二、三年前から物心が付いてきた娘のかりん夏琳ちゃん(六才)は、例外となった。幼いせいもあり、また、生まれてからずっと岡山にいた僕とは別居状態にあったので、お説教を聞く機会がなかったためかもしれない。
いつの間にか、夏琳は犬が好きになった。公園で主のあるお散歩の犬と戯れている間、怪奇千万な犬の種名も覚えるようになっていた。「家にも犬を飼おうよ」、とせがんできたことも、もちろん、一度ではなかった。しかし、その都度、僕は動物禁止という公団住宅の鉄則を楯に容赦なく夏琳の幼い夢を潰した。「お父さん、一軒家を買おう」、一軒家では犬を飼えることが分かった夏琳ちゃんは、今度はこうした無理な要求を出して、僕を狼狽させる始末であった。
幼い愛娘の願いを少しでも叶えてあげようと、心の優しいお母さんは昨年の二月から、僕の許可なしに、子ウサギ二匹を買いいれ、ベランダで飼いはじめた。大喜びした夏琳ちゃんはお兄ちゃんに教わった何者かの人気歌手の名前にちなんで、性別も分からない二匹のウサギを、タックンとナツエと命名した。タックンはお兄ちゃんの所有となり、ナツエは夏琳のものとなった。夏琳は毎日にように、ウサギ小屋から自分のナツエを出して、部屋に放したり、胸に抱き込んだりした。いたずら子のウサギは放されている隙間を見て、電気コードやら、カーテンやらにかじりつき、お母さんが苦心して育てたハーブの葉っぱをかたっぱしから食い荒らしたりした。
帰京の際、この家の異変に怒りを感じた僕だったが、夏琳の喜びの顔をみると、しばらく、ちょっかいを出さないことにした。夜中がりがりと檻のはりがねをかじって音を立てるウサギたちの悪ふさげも、じっと我慢していた。短い団らんの期間、家族を騒がせたくないとの理由もあったが、一方、一晩、二晩を我慢したら、岡山にある静かな己の天地に戻れるという惨めな自己欺瞞の気持ちも、ないではなかった。
子供を慫慂している間、いつの間にかウサギが成長した。夏休み前からタックンとナツエが恋をし、その後、三匹の子ウサギが生まれた。母ウサギとなったのは、タックンと名付けられた男役の方であった。大喜びの夏琳は、三匹の子ウサギにそれぞれタックンジュニア、ナツエジュニア、レイクンと名付けた。一日に数回、目が開いたばかりの子ウサギを手のひらにのせては優しい声をかけたりした。このまま放置したら、大変なことになるぞ。僕は遂に我慢できなくなった。長い夏休み中の出来事でもあり、とうとう僕と家族の対決が始まった。始め、子供相手に数回ウサギ処分の提案をしたが、その都度、二人から断固として反対された。「ウサギ嫌いならこのうちからでーてけー」。子供たちにとって、ウサギは家族をほったらかした「うるさいおやじ」以上に、大事だったようである。
しかし、僕にとって絶好の機会がやってきた。八月に予定した、お母さんとお兄ちゃんの、西安、敦煌の旅行である。約三週間家を空けることになり、その間僕は夏琳を岡山に連れていくことになった。元々動物禁止の集団住宅だから、いまさら隣人に面倒を見てもらうわけにはいくまい。ちょうどその時、天の助けだろうか、ウサギがハプニングを起こした。二夜連続で小屋から脱出し、ベランダ伝いに隣の家に侵入し、隣人の子の、学習観察用のアサガオを食い散らしたのである。この事件は、隣の数戸の家への苦情調査、弁償と謝罪によって、ようやくおさまった。
兄の夏聡も僕の怒鳴りつけ、隣人への謝りによって、幾分動揺した様子を見せた。しめたぞ、事件の後、僕はすかさず攻勢に転じた。なんとか家族が家を空ける前にけりを付けようと、僕は硬軟を交え、あのてこのてを使って家族にウサギの処分を説得した。まず、ウサギの飼育に疲れたお母さんとは、ソファーを買う約束で取引を成功させ、続いてお隣さんに迷惑をかけたことを反省した兄の夏聡を、好きなゲームソフトを買う約束で買収した。こうして相次ぐ母と兄の変節を前に、少しずつも、夏琳が動揺し始めた。お隣に迷惑をかけたこと、飼育はルール違反だったことを、ようやく悟ったようである。でも、処分の話になると、理屈は通らなかった。さんざん苦労して説得した結果、夏琳は渋々ながら親ウサギの処分を受け入れたが、赤ちゃんウサギに関しては、かわいそうという理由で断固と譲らなかった。結局、自活ができてから、誰かに預かってもらおうということで、最後の妥協を見た。
ほっとしたのもつかの間であった。お母さんたちはその後間もなく旅に出たが、今度は、僕が子ウサギの面倒を見る羽目になった!お母さんと夏聡がたつ前の日、僕はまず二人の子供をつれて雄のナツエを二十キロを離れた河川敷の草むらに放し、一週間後の、岡山にたつ前日、夏琳と一緒に、雌のタックンも同じ所に放した。一週間をあけた理由は、ぎりぎりの最後まで、三匹の子ウサギに母乳を与えるためである。数ヶ月間、僕を苦しめてきた二匹のウサギを放した時、僕はほっとした解放感を味わったが、子供たちのすすり泣きの前、何となく悲しい気持ちもあった。
親ウサギを放してから、僕が夏琳と二人で、三匹の子ウサギの面倒を見ることになった。生まれてまだ二十日間前後の、離乳していない子ウサギたちである。東京の家を空けるので、最初の難関は、うだるような暑さの中、車で三匹の子ウサギを七四〇キロも離れた岡山に運ぶことである。途中でウサギたちはたぶんトランクの中で死ぬだろう、と観念していたが、夏琳の幼い心を傷つけたくないので、出発する前、入念な準備をおこなった。段ボール箱の通風口を増やし、人工授乳のための授乳瓶や牛乳も用意した。高温にならないように、トランクと車室内に通路をあけエアコンの冷風を送り込み、途中の休憩所に入るたびに、ウサギを出して様子を窺った。
幸い、ジュニアたちは、車酔いの気配こそあるものの、とくに苦しい様子は見せなかった。子ウサギは無事に岡山についたが、今度は、かねて計画していた大山の旅という試練が待ちかまえていた。そのため少なくとも三十六時間、宿舎を空けることになるからである。ほったらかすと不安なので、結局、もう一度子ウサギたちを車に乗せ、一緒に大山に行くことになった。二日後に控えた大山の旅に耐えられるように、僕は子ウサギたちに牛乳の他、リンゴなどの離乳食を与え始めた。
大山の旅は、はじめ順調だった。まず吉備高原都市の芝生に子ウサギを遊ばせ、その後蒜山高原で大根の葉っぱも食べさせた。最後の休憩地だった牧場公園で休むとき、僕は夏琳と三匹の子ウサギを箱から出して、芝生に放した。最初、車酔いで動きは鈍かったが、しばらくしてから俊敏に飛び跳ね始めた。初めてみた自然の中にいたウサギの本来の姿である。喜んだ夏琳は、子ウサギたちを追い回り、その後捕まえた三匹のウサギを片手で押さえ、喜びのスナップ写真をとってもらった。
これは、ウサギ兄弟との最後の写真となった。大山の宿についたのは、午後四時頃だった。旅の疲れも気にせず、僕と夏琳はまた子ウサギを豪円山スキー場の草むらに放して遊ばせた。子ウサギたちはとても元気な姿で飛び回り、若葉を思い存分食いちぎっていた。ウサギを遊ばせている間、僕は夏琳をつれて豪円山を登ることにした。夏琳は最初、子ウサギたちが逃げるのではないかと不安がったが、僕は、子ウサギはとうてい人間の足に及ばないといって説得した。山頂への散歩コースを歩き、三〇分ほどで戻ってきた。案の上、三匹の子ウサギは同じところで遊んでいた。数十メートル先でウサギの無事を確認した夏琳は、喜んで叫びながらウサギの方に走り出したが、この瞬間、中の一匹が驚いて急に走り出し、深い草むらの中に姿を消した。タックンジュニアだった。
慌てて僕と夏琳は残った二匹を箱にしまい、日が暮れるまでの一時間、必死になって草むらをかき分けてタックンジュニアを探した。二人とも短パンしかはいていない軽装なので、草の毒、夕方の蚊の群に襲われ、まもなく、足はこぶだらけになった。しかし、結局タックンジュニアは出てこなかった。僕は、赤くはれた二人の足の傷をみてこれ以上探すのは無理だと判断し、薄暗い夕闇の中、泣いた夏琳をむりやり、宿につれもどした。子ウサギは二匹になってしまった。夏琳はがっかりひどく悄げた様子だった。大好きな焼き肉もほとんど口にせず、隣部屋の子供とはしゃぐいつもの元気もなくなっていた。楽しいはずの大山の夜も、このハプニングによってすっかり白けてしまったのである。次の朝、宿を出る前、僕は夏琳ともう一度タックンジュニアを探しにいったが、もちろん見つけることはできなかった。
残った二匹の子ウサギを車に乗せ、僕はとうとう豪円山を離れることを決意した。「タックン、さよーなら…」。のどを詰まらせるような夏琳の泣き声に、僕の心も異様に動かされた。
その後、約二週間の間、岡山の宿舎で、僕たちと二匹の子ウサギは一緒に寝起きした。ウサギの元気な姿は、大山での悲しい記憶とかゆみの傷を癒してくれた。人工のドライフードを与えずに、毎日のように、ウサギを宿舎後ろの野球場に放しては自由に草を食べさせた。突然現れた二匹の小さい生命と、東京からきた新参者の夏琳は、たちまち宿舎の子供たちの注意を引き、ウサギのおかげで、飼い主の夏琳ははまもなく子供たちのヒーローになった。夏琳も子ウサギに対する子供たちの興味を巧みにつかみ、年下の友たちにも、年上の友たちにも自分とウサギの存在を売り込み、宿舎の界隈で、大いに威張っていた。
まもなく、新学期が始まり、僕の三週間のウサギ飼いが終わった。お母さんたちが帰京した翌日、僕はウサギをかごに入れ、夏琳と共に新幹線にのってお母さんの所に届けた。「元気に生きているぞ」と、僕は自慢げに二匹の子ウサギをお母さんとお兄さんに引き渡したが、タックンジュニアを逃がした心の咎めを、全く感じていないでもなかった。
その後、気にかけた子ウサギ成長の様子を時々、電話で聞いてみた。一ヶ月の後、これまでの約束を守ったお母さんから、子ウサギの「処分終了」の報告を受けた。喜ぶはずの僕はこの時、なぜかぎゅっとして声が出なくなった。
預かり主を探すため、親子三人は、保育園なり、学校なり、子供の友達なりにいろいろ聞いてみたが、二匹を一緒に預かってくれる人は現れなかった。結局一匹(レイクン)だけ夏聡の友達に引き取ってもらったが、ひとりぼっちになったナツエジュニアを、ある晩、光が丘公園中にある野鳥保護ゾーンに放した、という。
その後帰京の折り、僕は子供の前で動物嫌いの顔を崩さないように気をつけながら、気にしてならないナツエジュニアの最期の様子を密かにお母さんにたずねた。そして、子供に隠れて涙を流したのである。
十月が終わり、僕は東京にいる夏琳の願いを聞きいれ、一人で二ヶ月ぶりに豪円山にタックンジュニアを尋ねた。車から降りたとたん、僕は一瞬立ちすくんだ。夏に辺り一面茂っていた草は、冬のスキーに備えてきれいに刈り取られていたのだ。もはや身を隠すところはない!タックンはどこにいるだろうか。
僕はタックンジュニアを見失った場所に進み、夏琳に報告する嘘のせりふを頭に浮かばせながら、黙々と手を合わせた。熱いものが頬づたいに流れてきたことが感じられた。
こうして我が家の半年あまりのウサギ飼いは終わった。楽しい思いがあり悲しい思いもあった。人間の豊かな感受性はこうした喜怒哀楽の変転を経て初めて育つのだろう。この大切な思いを忘れないように、僕は、蒜山で撮った夏琳と三匹の子ウサギのスナップ写真を引き伸ばして机に飾った。
僕は今なお動物嫌いの人間である…。