桜の美学
まもなく桜の春がやってくる。毎年のように、この季節になると、いつも静かな公園には花見の客
でごったがえし、咲き誇る桜花の樹の下、みんな飲んだり騒いだりしてこの短い春の一時を楽しむこ
とになる。桜が美しい。これは私のようなヨソの者を含めて、誰もが疑いようのない常識なのである。
いままでこの日本社会の常識に従い、私も無条件に桜の美を信じ続けてきたが、しかし、いったい「なぜ桜が美しいか」、「桜のどこが美しいか」と、あまり深く考えたことはなかった。齢を重ねるにつれ、社会と人間への眼差しが疑い深くなり、桜の美についても、ようやく自分なりに思索するようになった。
桜の美には深い哲学があったようである。一輪の花をとって観察すれば、花びらに艶がなく、鮮や
かな色もない。香りもせず果実も結ばない。色は淡いピンク系と言われるが、実際目に映ったのは、
ほとんど白なのである。濃淡、明暗、色彩に欠けるため、空、海、人物、建物などの背景をとり入れ
ないと、写真にもよく映らない。まことに味も素っ気もない花なのである。しかしこの素っ気ない花
の中こそ、日本的美学の奥義がある。
桜の美学は、まずその咲き方にあろう。一輪の花には魅力がないが、個々の花を一斉に、そして丘、山一面に咲かせると、壮麗な景観を構成する。「やよいの空は、見わたすかぎり、かすみか、くもか、にほひぞいづる」と言ったように。この美学を心得たためだろう、日本人は多くの場合、一、二本だけで桜を育てず、並木、林、山にして桜を競艶させるのである。
桜の美学はまたその散り方にある。一週間の短い命、その後風に吹かれ花吹雪になって一斉に散る。その未練のない潔い散り方は、よくサムライの精神に譬えられる。昔の武士は好んで桜の下で切腹する話をよく聞くが、先の戦争に使われた特攻兵器にも「桜花」(おうか)と命名されたものがある。飛行機に牽引された、自力走行能力のない飛翔爆弾で、操縦する人間もろとも目的に向かって体当たりの仕組みだった、という。
桜の美学はもう一つの面は、生き方にあろう。質素、純潔。生きて果実を持たず、妖艶な色、魅惑
の香りも出さない。一方、集団でその美を競い、また集団でその最期を迎える。大和人の群集性、協
同性の性格はこうした桜の美学をつうじてよく現れる。
また、「花見」もこうした日本人の集団性的性格をよく表すのではないかと思う。花見は日本人の
酒を飲む口実だという話をよく耳にするが、私はそれ以上の社会的意味があるように感じる。一人で
花を見る日本人は殆どない。家族で花見をするケースもそれほど多くないように思う。圧倒的に多い
のは、グループ、サークル、会社による組織的な花見であろう。白一面に染まった花の海の中、酒を
酌み交わしながら語り合い、花の美しさを観賞するのではなく、おのおののグループ、組織、集団中
の絆を再確認するのである。
桜の美学は、しかしあくまでも日本という島に限って生きるものであり、必ずしも世界に通用する
価値とはいえない。自由、個性を重んじる西洋の国では、共同体の美学はまず否定されるが、実益を
重んじる中国でも、同じような否定的意見を耳にする。「桜はどんな実を結ぶか」、とよく質問されるが、言外から、美しい花のようにおいしい果実への期待をふくらませている。「サクランボのような堅い実があるが、食べられない」というと、「実もならず材木にもならない桜をなぜ植えるか」と、怪訝な顔が見せられる。なるほど、「花より団子」。中国人の実利的美学と価値観の表れである。おそらく昔の中国にも、桜の木があったろう。あまり人間生活の役に立たないから、次第に人間の手により淘汰されたのではないか。
桜は、やはり日本の花。日本の社会、日本人の中でしか、その美学の奥義が伝わらない花である。
共同体の絆を象徴する、集団主義、団体主義の花だと言って、良いかもしれない。(姜克實)