近代化におけるナショナリズム、アジア主義の位相 ――日本のアジア主義と中国革命
- 姜 克实
- 2020年2月8日
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岡山大学名誉教授 姜克實
一、問題意識
本研究会の趣旨について、筆者なりに解釈すると、これまでよく見られる、日本と中国の近代化を異質のものとして対照に捉える方法に対し、アジア全体の近代化を前提に、「東アジア全体の視野」、「東アジア政治社会思想の連続性」[1]と、相互影響、作用の性格を再提起するもので、東アジア各国の政治、思想、社会における東洋の伝統思想、儒教思想の共通性と連続性を強調し、日本の近代を西洋の眼差しのみではなく、東アジア思想史にも位置付ける試である。
近代化イコール文明化、西洋化のような短絡な歴史理解、解釈に異議を申し立て、文化の伝統と連続性を提起し、近代化過程におけるアジア的特徴、および儒教、漢学伝統の側面を発掘し、再評価する試み自体は非常に重要であると思う。同時に、筆者が自覚しなければならないと感じたのは、この作業の前提をわきまえる必要である。すなわち、アジアの近代化思想の主流は西洋のものか、東洋のものかの位置づけとは別に、こうした東洋伝統思想の存在が実践面において、アジアの近代化過程に及ぼし、または及ぼし続けた政治的、思想的の効能、効果に対する冷静な検証である。それは果たして近代思想と言えるか、そして現今のアジアの政治、社会にどのようなプラス、マイナスの影響を残していたか、である。
以下で筆者は、自分が最近まで取り組んできた、アジアの近代化過程に現れた、東洋的価値観が顕著に現れる二つの思想、一、日本のアジア主義と、二、その根底にある、市民社会の基礎を持たない、アジア的ナショナリズム(民族主義)を取り上げ、歴史と今日の両面から、儒教思想の日中両国の近代歴史と近代国際関係に及ぼした影響、特徴などを論じ、以てこれからの、本研究会の意義ある展開のために一石を投じたい。
二、アジア主義とその時代意義
戦前から戦後にかけて、日本の政治、思想界の中、東洋的色彩が最も濃く現れているものは、日本のアジア主義ではないか。
アジア主義とは、近代日本の国家的アジア戦略、民間のアジア経綸に随伴して生まれてきたさまざまな主張・思想の中から、健康とされる部分――連帯意識――だけを切り取って理想化したものであり、戦前、「大亜細亜主義」「汎亜細亜主義」「亜細亜モンロー」主義、東亜連盟思想の形で日本のアジア侵略を正当化する理論として利用され、実践の面において、日韓併合、東亜協同体、大東亜共栄圏など、日本を盟主とするアジア制覇の政治結果を演出した。戦後初期の思想界では、「アジア主義」は「汎アジア主義」「大アジア主義」という侵略イデオロギーとして批判され[2]、一時鳴りを潜めたが、一九六〇年代以降、東西冷戦対立の中、高度成長下の、戦後日本人のアイデンティティの再建を背景に甦り、思想家竹内好によって再生、主張された。
竹内好のアジア主義は、「近代の超克」[3]という時代的命題を強く意識したものであるが、戦前のアジア主義と違って、徹底した侵略戦争反省の立場から出発したのであった。東西冷戦下のイデオロギー対立の中、竹内は日本と東洋の独自なアイデンティティを再建する方法として、戦前にもあったアジア「連帯」の言葉に注目し、この意識を政治現実から切り離し、かつての侵略国家も被侵略国家も、左翼も、右翼も受容しやすい一種の「思想の傾向」・「心的ムード」に抽象化し、東洋のアイデンティティを代表する要素、また「近代の超克」の思想方法として機能させようとした。
竹内のアジア主義は、敗戦による民族、国家の喪失と自己の喪失という二重の屈辱感を味わった進歩的知識人に、日本と東洋の新しいアイデンティティと未来像を示したと同時に、高度成長下で向上しつつある日本のナショナリズム再建の時代的要請に応え、思想界に大きな足跡を残した。また国民精神の再建だけにとどまらず、戦前日本のアジア侵略に対する日本人の罪悪感を和らげ、一種の思想上の自己解脱、良心上の自己慰安の理論としても機能したのである。竹内好のアジア主義主張とその思想方法はその後、多くの後継者たちに受け継がれ、研究を通じて「アジアの連帯」に関する沢山の事例、成果が発掘され積み重ねられた。そして戦争の記憶が薄れ、政治、経済の国際化、アジアの地位が上昇した二一世紀の初頭、竹内の評価に続き、アジア主義は三度目政治面から脚光を浴び、アジアの国々をとりまとめる理論として、学問、思想の場から政治、経済の場へ、東アジア共同体、環太平洋経済圏といった新時代日本の政治、経済戦略の中に主張されるようになった[4]。
一方、注目すべきは、アジア主義は決してアジアの共同の思想遺産ではなく、一歩日本という国境を越えると、その存在を知り、かつその意味を理解、賛同するアジア人が殆どいない。むしろいまなお、戦前のマルクス主義学者李大釗の論文「大アジア主義と新アジア主義」に見られるような、アジア主義を「中国呑併主義の隠語」「侵略の主義」「日本の軍国主義」[5]として、警戒する論が多い[6]。
なぜアジア主義と呼ばわれるものはアジアで信用されないのか。日本のアジア主義がどのように生まれ、その本質とは何か。それは、近代の歴史を振り返らなければならない。かつて戦前のアジア主義は、日本対外侵略に利用された思想道具であり、またその政治実践がもたらしたのも、大東亜共栄圏のような盟主日本によるアジア制覇の現実であった。歴史の経験と教訓は、アジア人が日本のアジア主義の主張を拒み続けた理由である。
一方、戦後に生まれた竹内好の「アジア主義」は、高度成長を背景下の日本人の思想再建の試みであり、後ろ向きの、歴史の政治過程を解釈する理論ではなく、将来に向けた、自己、自国民の精神的再建を模索する、思想的営為の結果であったと指摘されよう。思想の営為であるが故に、そのアジアの連帯意識を意図的に成就する方法上の操作があったと筆者は思う。あえてその特徴を指摘すれば、一、「連帯」という希少の価値を普遍化、系統化した操作と、二、「連帯」の価値を突出させるため、国権拡張の目的と連帯手段を倒置させる思考方法、および三、文化芸術、人情的連帯の事例を突出させ、戦前日本のアジア侵略、アジア制覇の政治面の結果を隠蔽はしないが、相対的に矮小化する方法にあるのではないか、と筆者は考える[7]。
また、筆者にして最も警戒するべきものは、竹内好の理論ではなく、その後継者たちによる、思想営為(理想)の政治的還元(現実)の試みである。すなわち、かつて竹内好によって「曖昧」化した、「心情」、「思想傾向」として定位させた連帯意識の理想を、再び現実的歴史解釈法(近代史の政治過程における連帯面の価値の強調)に活かし、また、国際政治の理論として(東アジア共同体論)、実践に還元しようとする指向である[8]。
アジア主義の問題点はどこにあるか、本章では、アジアの「連帯」という言葉、行為に含まれる東洋的価値観を、儒教的秩序原理の角度から解析し、その理論と方法面の特徴を明らかにしたい。
三、「連帯」という言葉の含意
「連帯」というキーワードは、アジア主義の核心となる言葉だが、同時に儒教的、東洋的共同体社会の代表的価値観でもある。あるいは人が言う。なぜ連帯は東洋的だと言うのか、西洋にも、団結のように、おなじ意味の言葉、主張があるのではないか、と。
これに対して筆者は、連帯の語彙は、アジアの共同体社会に限って見る場合、儒教道徳の色彩が濃く、共同体社会の秩序原理をあらわす意味があると考える。
その最大な特徴は、上と下の序列関係を表す、縦のつながりの含意にあると指摘したい。今日でも、この言葉が多く使われる「連帯保証」、「連帯責任」の場合と同じように、上と下、保護者と被保護者、親と子のように位置づけられ、必ずしも平等の関係を意味しない含みが読み取れる。一九四六年一月の、「人間宣言」と呼ばれる昭和天皇の詔書にでてくる「紐帯」の意味[9]と同じく、社会の構成員を結びつけて、社会をつくりあげている血縁・地縁・利害などの家族的、共同体的意味が含まれているように思える。
分かりやすく解釈すると、西洋的「団結」には「横」の繋がり――同士、同志、同僚、同職、同好を繋げる含みがあるが、対して東洋の「連帯」には、「縦」の繋がり――家庭、家族、血縁社会、郷党社会、地域共同体を連結させる意味が強い。両者の間には、現代的価値観に対して伝統的、あるいは利害を尺度にする政治・経済的対等関係に対して、歴史・文化、民族面の、あるいは氏族社会、共同体内部的紐帯を表すニュアンスがあるのではないかと考える。
この場合、共同体的連帯への求心力には、近代的平等の意味がなく、血縁、地縁、上下の秩序を規定した伝統道徳の色彩が強い。すなわち、血縁社会を繋げる家族、氏族、親類同士の間の同源、同祖の血統認知であり、地縁社会における同村、同郷、同俗、同信仰という、地理的、風土的親近感であり、またこうした血縁、地縁社会の内部規範、ルールを表す家教、家訓、家法、共同体社会における掟、法度、通俗道徳、儒教道徳の存在である。
とくに長い歴史と伝統がある儒教的支配とそのための道徳説教は、その中心の位置を占め、共同体を束ねる紐帯の役割を果たす。日露戦後の一九〇八年、天皇制国家への国民統合を図るため発布した戊申詔書にある、「宜ク上下心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ 勤倹産ヲ治メ 惟レ信 惟レ義 醇厚俗ヲ成シ 華ヲ去リ 実ニ就キ 荒怠相誡メ 自彊息マサルヘシ」の内容に代表されるように、忠実、孝行、服従、和睦、敬愛、謙譲、貞操など家族、郷党社会の組織原理、上下序列関係を表す儒教の徳目はその中心であった。
ここにみる連帯の原理には、西洋の近代的平等観念、一対一のような経済的等価価値の基準は存在せず、忠と孝のように、上下の地位関係に基づき、家族構成員が家長へ、臣下、家来が君主へ、婦が夫への主従・服従関係が求められ、社会の全体も、近代的法意識ではなく、掟、慣習、道徳あるいは共同体内部の人情によって束ねられる。この原理は東洋の家族、血縁社会、地縁社会、あるいは拡大して儒教思想に影響された東アジア諸国の内部において、昔から機能して来たし、現在でも家族関係、地域関係において、ある程度機能している事実を認めなければならないが、問題として一、それは果たして自由、民主、平等の価値観を謳う、近代思想なのか、近代化の過程において、どんな役割を果たしたか。二、この共同体内部の秩序原理は、果たして近代の国際関係(アジア主義のように)に適応できるか、無理矢理に押し通す場合、どのような効果をもたらすか、である。
四 東アジア共同体論の陥穽
近代、日本において「アジア主義」という旗印の下では、様々な共同体の理論が模索され、また日韓合邦、東亜連盟、東亜協同体、大東亜共栄圏のような、さまざまな理論、実践も試みられたが、悉く失敗に終わっている。アジア主義の実践が歴史に残したのは、戦争、侵略、植民地の併合という厳しい現実のみであった。
また、戦後一九六〇年代から、日本国内で戦前の侵略的アジア主義に対する反省を基礎に、思想家竹内好(一九一〇~一九七七)の主導によって、侵略ではない平等な「連帯」の理想像が模索され、二一世紀の初頭、小泉純一郎内閣時代の「東アジア共同体論」(二〇〇三年)[10]、鳩山民主党政権時代の「東アジア共同体」構想(二〇〇九年)[11]に結実したが、まもなく竹島、尖閣などの領土問題をめぐって熱が去り、思想の連帯は、政治対決の現実に急転回した。
なぜ一見美しい理想であるように見えるアジア主義とアジア共同体論は、現実上の幻となるか。これは近代的国際関係の性質から理解しなければならない。弱肉強食から始まる近代的国際関係は、基本的には力関係の均衡を背景にした勢力対抗の世界であり、あらゆる利害は腕力によって解決する世界であった。二回の世界大戦の悲惨な教訓を得て、国際組織と国際のルールが作られ、国際関係も幾分文明的に変わったものの、力で抗衡する基本的図式には、変わりはない。つまり国際政治の世界において、目的としての真の意味の平等な連帯、団結はありえないからである。ここで現出する同盟、団結も主張も、連帯の言葉も、ことごとく一時的政治の手段であり、策略であり、政治の目的ではない。政治の目的、力の均衡関係の上で、一時的、策略としての連帯、協同の模索がありうるが、政治の目標ではないため、地位関係、力関係が変わると、連帯の現実が残るも、必ず指導、誘掖、併合、侵略の結果に変質する。
パワーポリティクスという西洋的政治学の価値観を用いる場合、連帯、団結、協同体は政治の手段であり、双方の利害には偽りの要素が少ないが、これを東洋的価値観に適用すると、欺瞞と不平等の結果が生まれる。この場合、連帯は目的として解釈され、また国際の関係も、忠、孝、服従などの儒教的道徳によって律される。前にも触れたように、連帯とは、東洋の伝統にある封建道徳であり、統治手段であり、共同体、家族社会の、近代的平等を前提としない秩序原理であった。それを儒教道徳の下で理想化して、さらに強引に近代の国際関係に適用しようとする所は、そもそもアジア主義にある致命的問題ではなかろうか。昔の御用的、侵略的アジア主義論のイデオローグたちと同様に、いまの良識あるアジア主義の研究者、鼓吹者たちも同じような過ちを犯していると思う。設問するが、国家間の政治利害――例えば、領土問題、経済利権、政治利害の衝突、対立が起こる場合、こうした東洋的、伝統的、儒教的「連帯」ははたして国際ルールとして機能しうるか。家庭内部の孝行、服従関係、村共同体内の地縁的連帯、謙譲、協力は果たしてナショナリズムが支配する国家関係、国際関係に転用できるか。国際関係の場合、共同体内部の道徳で超えられない国家、ナショナリズムの壁があることを認識しなければならない。アジア主義の問題は、この問題を無視し、あるいは故意に隠したにあるのではないかと筆者は思う。
アジア主義の連帯を主張するにあたって、まず認識しなければならないのは、以下の三点であろう。
1.連帯は、東洋的共同体内部、家族社会内部の秩序原理であり、そもそも平等という近代的概念が存在しない。
2、連帯は政治の目的ではなく、忠孝、服従を原理とする支配の手段であり、儒教的支配道徳に基づくものである。
3.こうした前近代の封建的思想、道徳を近代の国際関係に適用させる試み自体が原理面の誤りであり、無意識に、あるいは故意に推し進めると、欺瞞性に満ちる理論と実践結果が生まれる。領土、権益などの国際関係上の利害は、道徳の忠と孝、また仁愛によって、決して解決できるものではない。
五 連帯思想にある三つの要素とカラクリ
以上の論を通じて、政治の利害には、東洋的道徳に基づく連帯の方法が通用しない原理を引き出しているが、しかし、この原理は政治利害の場合のみの原理で、連帯の社会的役割のすべてを表すものではない。前にも触れたように、連帯には近代的平等の価値観は存在しないが、前近代的家族社会、共同体社会内部の秩序原理として機能してきたし、また近代の国際関係面に置いても、国家、政治の利害と違う面で平等が成り立つ特徴が指摘される。すなわち、1.歴史、文化、芸術的面の近似性、同質の面における可能性、および2.民族、民俗習慣、人間の友情の面における可能性である[12]。また3.経済の面に置いても、互恵、平等な取引を通じて、国家の間に平等な連帯関係を維持できる。
この連帯が持つ、可と不可の特徴を認識し、アジア主義を政治思想、国際関係論から切り離して、文化芸術の面、歴史民俗の面、また人情の面、経済交渉の面に機能させ、アジアのアイデンティティと同質性を求める文化面の価値があるが、実際の面なかなか独立できない。近代のアジア主義は政治の一部、またナショナリズムに随伴して近代の緊張した国際情勢の下で生まれた思想主張であるため、その時代の国家政治の目的を離れ、文化思想として独立することは困難であった。また日本のアジア主義は、西洋への対抗(興亜論)思想、日清戦争後の三国干渉の“屈辱感”の下で増幅して主張されたため、一層アジア主義の連帯を、政治の目標に達する思想道具、方法手段とした性格を徹底させた。戦前では同文、同種、同命運の宣伝文句は日本のアジア制覇の政治目的の隠れ蓑になっていたと同様、戦後の竹内好も、岡倉天心の芸術論、孫文と大陸浪人たちの人間的友情のような文化、人情面の連帯意識、信頼、友情の発掘を通じて、侵略的イデオロギーと認識された、瀕死のアジア主義を蘇生させた。
つまり、戦前、戦後を通じて、アジア主義の主張は同じように、歴史、運命の連帯、文化、芸術、人間の連帯の鼓吹を通じて、政治行為の目的――アジアの制覇――を隠し、連帯の可能性と事例を、政治悪の隠れ蓑、修復材料として利用してきたと指摘される。現在でもそうであるが、政治利害による周辺地域との国際関係が破綻するとき、関係修復ために動いたのは、例外なく民間の友好組織、文化代表団、貿易代表団であり、また個別の政治家の間の、個人的信頼と友情であった。近年、竹内好の方法を受け継ぎ、多くの学者、民間人によって発掘され、積み重ねられた大量の連帯の事例と美談も、ほとんど文化、芸術、歴史、制度、宗教面の内容であった。
賢明な竹内は、国際間の政治対立や近代の日本の侵略行為と一線を画し、自らが主張したアジアの連帯を一種の漠然とした心情、自立が出来ず「史的な展開をたどることはできない」「思想傾向」、「心的ムード」[13]と規定し、理想、思想の領域に限定しようとしたが、しかしその後の研究者の多くは、こうした文化、芸術、思想、制度面の連帯研究の蓄積を通じて、最終的にそれを、夢のアジア共同体の政治論として機能させようとした。二〇〇〇代の末尾に起こった日、中、韓の間の政治面の領土紛争は、戦前日本のアジア制覇の政治実践と同じように、再度、知識人たちの努力と理想を徹底的にうちのめしたのである。
こうした政治と文化、人間の間におけるアジア主義連帯の不可と可の特徴を認識し、アジア主義の主張と運動関係、理想と現実の乖離を認識し、アジア主義政治論のからくりを解することは、今日の、学問としてのアジア主義研究の一番重要な課題ではなかろうか
ようするに、アジア主義を評価するには、一、アジア主義の原点に立ち戻ってその発生の理由を考えることである(自国強盛を目的とする、ナショナリズムの本質の把握)。二、時代と政治環境変遷の中でアジア主義の変化の特徴を把握することである(いわゆる平等連帯の時代背景と変化の背景)。三、将来の理想としてではなく、近代におけるアジア主義の実践結果、またその最大公約数的指向を捉えることである(果たしてどんな共同体が模索、実践されたか)。四、アジア主義にある可能の部分と可能でない部分を分析し、歴史において、思想においてその両者の位置関係、からくりを認識することである。また国境を越えて、真のアジアエリアでアジア主義の価値を再検討する必要もあろう。
六、ナショナリズムと近代化
アジア近代化のなかに生まれた、もう一つの東洋的色彩のつよい思想は、ナショナリズムの奇形児とも言うべき、忠君と愛国の思想コンビである。儒教思想による、伝統の封建制度と近代的国家主義の結合物で、近代の個人主義、自由主義の要素を排除した、東洋的近代化の産物であった。戦前では、日本天皇制国家の国民道徳として位置づけられ、徹底した教育を通じて、近代の国民を天皇の赤子、臣民に育成し、侵略戦争、他民族支配、戦場殺戮など、国家の政治的野心の道具として利用された。
同じように、中国も近代化を目指して革命の道をあゆみながら、君主専制の封建意識、制度から完全に離脱することはできず、専制に近い共産主義をイデオロギーとし、革命の成功、共和国建国のあとも、封建専制の色彩がつよく残る、全体主義の社会制度(社会主義)が維持され、最高権力者への個人崇拝、執政党への絶対的服従、国家至上の価値観を国民全体に植え付けた。前世紀八〇年代後の改革開放によって、中国は積極的に西洋から経済制度、産業技術を多く導入し、資本主義経済の仕組のおかげで経済成長を遂げたが、一党独裁の政治制度の変革を拒み、人権、自由、民主政治の萌芽を弾圧した。二一世紀にはいり、世界第二の経済大国の地位にのし上がった後も、当今の国際社会のリーダーにそぐうような政治的民主化面の進歩が見られず、むしろ集権政治、指導者終身支配の度合いを強化し、言論統制、身分制度による国民管理、監視、および徹底した愛国、愛党、愛社会主義の思想教化を通じて、専制色を強め、またこれを「特色のある社会主義」と名付け、経済の面だけではなく、政治、領土、軍事面でアメリカを相手に世界の覇権を争っている。
これらの現象はみな、伝統、儒教思想に基づく、近代化の過程に現れる東洋的ナショナリズムの宿命的欠陥ではないかと筆者は思う。ナショナリズムはもともと、近代国民国家の形成とともに現れた近代思想であり、政治革命と産業革命を起こした近代化の動力源でもあった。その存在は、良い意味でも悪い意味でも近代国家の“元気”さを図るバロメーターであり、近代的国民国家とナショナリズムが確立しないと、近代化の使命、革命的変革の目標が達成できないからである。
一方、西洋の近代化は、市民社会の形成と近代的個人主義、自由主義の洗礼を受けており、国民国家も、ナショナリズムも、平等、自由、博愛という市民社会の思想基盤から誕生した非常時期の制度、思想であった。ここで政治は、社会全体を構成する国民の平等、権利、利益を守る約束で近代的強い国家を建設し、この政治の主体をなす国民もいざという時、愛国主義の自覚に基づき、対外侵略、拡張の行為を含め、国家を支持し、献身的に戦った。ナショナリズムと国家主義、民族主義は、近代国家の非常時に機能する思想で、領土拡大の戦争を遂行し、個人の権利、自由を制限する一面もあるが、自由、平等という近代市民社会の価値観と思想基盤を有するため、平常時に戻ると、議会民主主義を通じて政治家の暴走を監視し、個人、国家への権力集中を制限する力があった。戦争の悪をもたらす愛国主義も、基本的には自己の意思、判断に基づき、また自分たちの利益を守る行為と理解され、ナショナリズムには君主、国家への服従、忠誠のような東洋的色彩は薄かった、と指摘される。
日本のナショナリズムは、自由民権運動の国権化への転向から日清戦争前後の挙国一致体制の形成の間(一八八五~一八九四年)で形成されたと考えられるが、中国では、清末の戊戌変法(一八九八年)、庚子勤王蜂起(一九〇〇年)の失敗後、「新民」思想、「軍国民」の主張とともに革命派の知識人、留学生のなかに広まり、辛亥革命の下地を固めた[14]。
一方、アジアの近代化は、西洋からの圧力、植民地化の危惧という国際情勢の危機感から始まり、西洋のような強い近代国家建設の目標を目指す指向が鮮明であるが、市民社会の誕生、市民革命の基礎を持たないため、近代国家の理念、体制に、前近代の封建的君主制の色彩が強く残った。明治維新から半世紀、東アジアにおいて列強に伍した帝国日本、あるいは封建王朝を倒した中華民国が現出し、近代国家建設の政治的目的を果たしたが、思想的にも、制度的にも、個人の自由、権利、平等の一面が欠落した。このいびつな近代化を結実させたのは、東洋の伝統の影響、儒教道徳の存在にあるのではないかと筆者は考える。
そもそも、アジアの近代化は、西洋文明に対する制度、思想面の対抗から始まる特徴があった。日本では一九世紀半ばからの漢学者による「和魂洋才」論、中国では改良派の「中体西用」の主張からも分かるように、近代化の模索は東洋の伝統、封建制度の持続を前提に始まり、明治維新も、近代天皇制の樹立、版籍奉還、王政復古の政治過程を辿り、東洋の君主支配を柱にした、改良、変革の模索であった。試行錯誤のうち、次第に西洋の政治制度、教育制度、文化思想にも目を開くようになったが、依然「富国強兵」の国家的目標を優先させ、国民の権利、自由、個人主義など近代的市民社会の価値観は確立するに至らなかった。近代的ナショナリズムは、明治憲法体制が整った十九世紀九〇年代から次第に定着し始めたが、しかしそれも、封建的忠君意識と近代的愛国意識をドッキングさせた国民道徳に縛られたいびつなものであった[15]。日清戦争時の挙国一致に象徴されるように、こうしたナショナリズムは国民教化の手段、侵略戦争遂行の道具として、利用されたのである。
同じように、中国のナショナリズムも、近代化過程の中、封建王権の転覆、近代国家の建設という国家的目的を掲げ、二〇世紀初頭から成立を見たが、市民革命、市民社会成立の基礎を持たないため、近代国家の建設と民族革命の課題が優先され、ナショナリズムと国民の変革を求めるエネルギーも、革命と政権交代の手段として利用されるひずみが現れた。
「三民主義を最も簡単に定義すれば、救国主義である…」と孫文が言うように、革命綱領に民族主義(韃虜の駆除・中華の回復)を民権、民生に優先させ、またいわゆる「民権」の規定にも「民国建設」の目標を掲げ、国民の権利に触れる内容はなかった。また近代国家の新道徳にも、儒教伝統の四維(礼義廉恥)、八徳(忠、孝、仁、愛、信、義、和、平)を並べ、「国家に対する忠誠」を唱えた[16]。こうして、中国は、近代の過程において、封建の満清政権、帝国主義の打倒の民族革命の目標に到達できたが、その基礎となる「民権」、「民主」の概念は結局根付かずにいた。民族革命が成功したものの、真の民権の樹立に至らず、「民生」の理解も、国家による善政の施行の境域を超えることはなかった。
こうした国民不在、民権不在の認識は、歴史学の分野にも影を落とした。近代化の成功、革命の成功に、指導者(孫文、毛沢東)個人の功績、先鋒隊たる政党(同盟会、共産党)の役割、また革命の方法、手段の重要性が大いに強調される反面、ナショナリズムの基盤と社会の底層にある民衆の存在、またその権利、地位が無視された。そして、近代革命成功の後も、領袖への崇拝、専制主義、終身支配、一党独裁の政治体制が変わらず維持されたのである。
日本の場合、明治時代の自由民権運動、大正デモクラシーの二度の洗礼を受けたが、政治面の制度的変化は実らず、全面敗戦とアメリカの占領を経て初めて他力本願、アメリカ式の民主主義を受け入れた。一方、戦争に勝った中国では、社会主義の体制と継続革命の路線が維持され、伝統的封建意識も専制制度が定着し、いまなお「特色ある社会主義」と名付け、十四億もいる民衆の基本的人権を制限し続けた。政党と指導者は絶対の権力者であり、国民は主権者ではなく、被支配者、被監視者、被利用の政治道具であり、愛国主義の内容も、教育を通じて領袖に対する忠誠、国家――現政党、政権、国家政策――に対する支持、領土、国益のための自己献身に歪められた。
忠君愛国の思想のもとでは、国家があって国民がない、君主があって人民はない。義務があって権利がない。この現象は、儒教の忠孝思想に影響された、東洋的近代化、東洋的ナショナリズムの特徴ではなかろうか。この近代化の奇形児は、最近、中国の「大国崛起」によって、日本のアジア主義のように、国際政治の舞台に持ち込まれ、アジア、世界経済を制覇する「一帯一路」、「人民幣経済圏」の野望、日本のアジア主義、東アジア共同体論に取って代わる「儒教文化圏、漢字文化圏」の思想主張のイデオロギーとして重宝視され、実際にも利用されようとしている。
歴史をふり返ってみれば、アジア主義、あるいは東洋的ナショナリズムは、近代的国家形成、あるいは今日の政治制度、国際社会において、はたしていかなる役割を果たしてきたのか?こうした近代史における東洋的近代化の過程、結果と遺留した政治現状こそ、本研究会が模索すべき、研究の出発点ではないか。
[1] 楊際開「研究会趣旨」、第一回研究会における楊氏の発言。
[2] 例えば『政治学事典』平凡社、一九五四年、には「汎アジア主義」(小椋広勝の解説)、『日本近代史辞典』東洋経済新報社、一九五六年、『アジア歴史事典』(六)には「大アジア主義」(前者は岩井忠熊、後者は野原四郎の解説)を用いていた。
[3] 戦前、知識人の中で模索された脱西洋化の戦争協力思想。戦後、アジア主義の再建を目指す竹内好は、この脱西洋化の摸索を思想の「アポリア」と規定し、違う角度(アジアの連帯)から近代の超克思想の再建(=アポリアへの再挑戦)を期待した(『近代の超克』筑摩書房、一九八三年、参照)。
[4]最近日本政府、民間の「東アジア共同体」の設立を摸索する動きについて、井上寿一『アジア主義を問いなおす』(ちくま新書、二〇〇六年)第一章を参照。
[5] 李大釗「大亜細亜主義与新亜細亜主義」『国民雑誌』一巻二号、一九一九年一月。
[6] 例えば中国の研究者戚其章は「日本大亚细亚主义探析——兼与盛邦和先生商榷」において「大アジア主義は日本帝国主義時代の産物で、日本のアジア、とくに中国大陸において西洋と対抗する政策と手段を提供する侵略の理論である」(『歴史研究』北京:中国社会科学院、二〇〇四年三月号、一四五頁)と指摘している。このような見解は、中国の史学界に多く見られる。
[7] アジア主義に関する筆者の見解の子細は、拙論「『越境』のアジア主義観─方法論の再検討─」(『国際日本学研究叢書』一九号、法政大学国際日本学研究センター、二〇一四年三月)を参照されたい。
[8] 例えば中島岳志は「アジア主義とは何だったのか」の文章に、日本のアジア主義が「心情」から「思想」への進化、さらにそれに基づく理想的「東アジア共同体」の構築を提言している(『保守のヒント』、春風社、二〇一〇年、二〇〇頁、参照。
[9]「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」。
[10] 二〇〇二年小泉純一郎首相がシンガポールでの政策演説において、東アジア・コミュニティ構想を打ち出し、また具体的に五つの具体構想を示して、ASEANとの協力強化を図った。
[11] 東アジア各国が政治、経済、安全保障などで連携し共存と繁栄を目指す構想は、民主党衆院選マニフェスト(政権公約)に掲げられ、二〇〇九年五月、民主党代表鳩山由(友)紀夫は、友愛精神に基づく「東アジア共同体」の建設を提唱し、日本・中国・韓国を中心とした東アジアの集団安全保障体制の構築と通貨の統一を唱えた(『Voice』二〇〇九年九月号)。
[12] 戦前のアジア主義実践における人情的連帯の様相について、拙著「大陸浪人と辛亥革命――連帯の接点とその性質を考える」(王柯編 『辛亥革命と日本』、藤原書店、二〇一一年)一三一~一五三頁)を参照。
[13]「アジア主義の展望」、竹内好『アジア主義』、筑摩書房、一九六三年、一三頁。
[14] 本論集に収録された孫瑛鞠論文を参照。
[15] 忠君と愛国の結合、および日本近代倫理思想としての展開について、石田一良「明治時代の倫理思想」(日本思想史研究会編『日本における倫理思想の展開』吉川弘文館、一九六五年)、二二九~二三六頁、参照。
[16] 「民族主義第一講、第六講」(一九二四年の講演)孫文『三民主義』上(安藤彦太郎訳、岩波書店、一九五七年)、参照。
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